【はじめに】・・・
コンセール・リュネールの10年史を作るとの事、誠に感無量です。この地浜松に来て早や7年、あれ程私の青春時代を占領していた"リュネール"の記憶も、実社会でのしがらみの前に、年毎にその輝きを失い、まさに消え去ろうとしていた矢先の突然のお便りに、10年前の懐かしい想い出の数々が鮮明に蘇ってくる気がします。
炎天下、練習場を求めてひたすら自転車をこいだ真夏の日々。雨の日の楽器運び。団員募集のチラシまき。そして、くずかごに捨てられたチラシの山。抱きしめたくなるような入団申し込みの電話。楽しかった軽井沢での初めての合宿。それに何よりも本当に個性豊かだったメンバー達。
でも、そんな想い出話は現在のリュネールの団員の方々にとっては全く無縁のことかも知れません。実際、発足当時20名程いた創立メンバーも、進学、就職、結婚といった現実の前に、ひとりまたひとりとリュネールに別れを告げていきました。
私自身、7年前就職のために止むなくリュネールを離れ、ここ浜松に来たのです。その後、東京出張の折に何度か練習場や演奏会に顔を出したこともありましたが、知っている顔は行くたびに少なくなっていきました。そんな時、リュネールが元気に存続していることに勇気づけられる反面、もうリュネールが自分の手から完全に離れていってしまったことを思い、複雑な気持ちになったものです。
しかしながら今回は、創立10周年の記念誌のためにリュネールの"ROOTS"を、とのことですから、しばらくは初代インスペクター(今は団長と読んでいるそうですね)の昔話に耳を傾けて下さい。何しろ昔の事ですし、記憶が不確実で矛盾したり事実に反することもあろうかと思いますが、お許しください。
【SPO(スポ)のこと】・・・
東京都立新宿高校には、私が入学した昭和39年当時、"新宿フィルハーモニックオーケストラ(誰もそんな風には呼ばず頭文字をとってSPOと云った)"という名前ばかりがいかめしい小さな小さなオーケストラがありました。
SPOは皆さん良くご存知の作曲家、池辺晋一郎氏が創立者で、我々が第4期生だったと思います。それはオーケストラというよりも、管楽器付きの弦楽四重奏団といった趣で、例えば私のクラリネットのパートなどは、ベートーヴェンの「田園」をやる場合、CLと同時にファゴットとビオラのパートまで演奏するという忙しさでした。それでも当時芸大の作曲科に在学中だった池辺さんは、折にふれタクトを振って(時には投げて!)くださり、家族的な和気あいあいとした雰囲気の中で、私たちに音楽の素晴らしさを教えてくれたのです。
【発足まで】・・・
SPOの団員は伝統的に奇人・変人の集まりでしたが、誰もが"何よりも音楽するのが好き"という点では一致していました。ですから、史上最悪の受験戦争を戦い、浪人組も一段落した昭和44年、SPO・OBの中から誰云うともなく、池辺さんを中心にアマチュア・オーケストラを作ろうという気運が持ち上がったのも、自然の成り行きだったように思います。
何回かの打ち合わせの結果、私がインスペクターに選ばれ、同年6月7日に新宿の音楽喫茶「プリンス」で発足会が開かれました。メンバーはSPOのOBおよび口コミで集まった人達が中心で、20名程でした。指揮者は池辺晋一郎氏、奥さんの幸子さんもVnで参加して下さいました。こうしてコンセール・リュネールは呱呱の声を上げたのです。
【名前の由来】・・・
団の名称は10近い案の中から練習後のミーティングで選びました。中にはフロイデ・オーケストラとか、なぜか昴(すばる)交響楽団とかいう名前があったのを憶えています。ですから皆さんのオーケストラの名前も、ひょっとするとフロイデ・オーケストラ、略して「フロオケ」なんていう名前になっていたかも知れないのです。 コンセール・リュネールの名はもちろんシェーンベルクの名作「ピエロ・リュネール」からヒントを得たもので、さしずめ「月に憑かれた合奏団」とでもいうところ。西欧では月を見つめていると(例えば狼男のように)気が狂うとの言い伝えがあるそうですが、"月の出る頃、音楽に憑かれた人々が下北沢の教会目指して集まってくる"との意味でした。因みに当時団員証や楽譜の表紙に押したリュネールのマークは、そんな意味をこめて私が作ったものです。
【音出し】・・・
第1回目の練習は小田急線代々木上原にある初台教会で行われました。曲はベートーヴェンのシンフォニーNo.1。冒頭の属7の和音が響いた時の感激は、今なお忘れられません。当時の編成は一応2管編成。弦はVnが各3プルト、VaとVcは2プルト、CBは1台、ObやFgはしばしば1本といった具合でした。それでも各パートには音大生とか元プロなどもいて、今考えても中々良いアンサンブルだったように思います。
【楽譜のこと】・・・ 楽譜は東京文化会館から借りました。資料室の窓口で新曲の分厚いスコアとパート譜を受け取る時は胸の高鳴りを覚え、何だか自分がとても高尚な仕事をしている気分になったものです。それを団員が各自で写譜やコピーをし、リュネールのライブラリーとしてきた訳ですが、コピーは今ほどポピュラーでなく、値段も高かったので、私はもっぱらアルバイト先の会社で人目を盗んではコピーしていました。
【楽器のこと】・・・
リュネールは(今は存じませんが)資金が極めて乏しいオーケストラでしたから、ティンパにやコントラバスは練習のたびに東大駒場のオーケストラから借りてきました。そのティンパにたるや「お釜」そのもので、色は真っ黒、しかも木製のヤグラの上に置いて叩くという古代的なものでした。しかしこれは嘘か誠か独逸製とやらで、本皮が張ってあり、とても重厚な音を出しました。
【池辺さんのこと】・・・
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リュネールを指揮をする若き池辺さん |
アマチュア・オーケストラの悩みは、いずこも同じ、団員の出席率の悪さです。結成当時は何しろビオラやチェロが全員で3,4名でしたから、しばしば1名しかいないとか、全然いないなんてことが起きました。そこへもってきて指揮者の池辺さんは、当時売り出し中の新進気鋭の作曲家でしたから、大変忙しいスケジュールの合間を縫ってリュネールのために駆けつけて来る訳です。指揮台に上がってビオラやチェロがいないのを見ると、見る見る機嫌が悪くなり、我々池辺さんを長年知っている団員達が心の中で『来るぞ、来るぞ』と思っていると、案の定怒りが爆発し、指揮棒を投げ捨てて帰ってしまうのです。ですからインスペクターは月曜日の夜にVaやVcの団員の家に一軒一軒電話をして、練習に必ず来てくれるよう懇願したのです。それでも団員達は池辺さんが大好きでしたから、何かにつけては家まで押しかけ、書きかけの曲を見せてもらったり、音楽談義や初見大会に楽しい時を過ごしたものです。
【細野さん、そして第1回定期演奏会】・・・ 池辺さんの他にも、かの小林研一郎氏や細野孝興氏など、素晴らしい方々がリュネールを振って下さいました。特に池辺さんがいよいよ忙しくなった昭和46年、ピンチヒッターとして指揮して下さった細野さんは本当に熱心にリュネールを育てて下さいました。氏のもとで念願の第1回の定期演奏会が開かれたことは、氏とリュネールとの短い係わりの中での記念すべき足跡として長く
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第1回定期演奏会で指揮台に立つ細野さん
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記録にとどめて欲しいと思います。 この演奏会の入場料は、99yen
という半端なものでしたが、それは当時入場税が100yen
以上から掛かったためのささやかな抵抗だったのです。この日演奏したベートーヴェンのSym.No.8は私にとって想い出深い曲となりました。それは、私を含めた創立メンバーの残党が、この定期演奏会を最後にリュネールを去らなければならなかったからです。その意味でこの曲はリュネールの第1期の終わりを告げる『白鳥の歌』でもありました。
【終わりに】・・・ さて、とりとめもなく書き進めてしまいました。まだまだ軽井沢合宿や室内楽コンパのことなど、お伝えしたいことが沢山あるように思いますが、最後に私の近況をお知らせして締めくくらせて頂きます。 私は現在、日本楽器に勤めるかたわら、結成4年目になる浜松交響楽団に在籍しています。このオーケストラにはあるスポンサーがついていて、団員は一般からのオーディションで募集されました。団員数は80名を超す大所帯で、演奏した曲も「未完成」「運命」から始まり、「新世界」「英雄」「第九」、そしてこの10月にはチャイコの「五番」、来春にはブラームスの「四番」と、その大曲主義は止まるところを知りません。 私も今までレコードでしか共演できないと思っていた憧れの曲が、山田一雄氏や山本直純氏の棒で演奏できることに大変満足していました。でも、いつの頃からか、このオーケストラに何か物足りなさを感じています。楽器の購入から演奏会の準備まで、全てスポンサーがやってくれるこのオーケストラは、きっとリュネールの皆さんからは夢のように映ることでしょう。
しかし、リュネールにあってこのオーケストラに欠けているもの、それは苦労を分かち合って初めて生まれてくる団員相互の"心の交流"です。10年前も、そして今も、他のオーケストラが真似ることが出来ないリュネールの大きな美点だと思います。皆さんがリュネールの暖かい雰囲気を大切にし、いつまでも心の通い合ったアンサンブルをお聞かせ下さることを心よりお祈りしています。
1979年吉日
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