幻のとんかつ
略してまぼとん

名古屋に住んでいた小学生の頃、親父によく映画を観に連れて行ってもらった。当時の映画は、「ゴジラ(元祖)」を始めとして、「モスラ」や「地球防衛軍」の「モゲラ」など怪獣特撮物が多かったが、ハラハラドキドキしながら観た半面、当時無類の模型少年だった僕は、いかにもおもちゃ然とした映画の中の戦車や軍艦に不満を覚えたものだった。

映画を観た帰りには、名古屋の中心街栄町にある松坂屋デパートの地下で食事をするのが家族の慣わしだったのだが、そこで食べたとんかつの味が私にとって忘れがたい原体験となった。肉の柔らかさと旨み、サクサクとした黄金色の衣の食感(とスイカの一切れ)は、その後何百回となく食べたどのとんかつからも得られない特別なものだった。社会人になってから名古屋出張の折に「あの味」を求めて松坂屋中を捜したりもしたのだが、その店らしきものはなぜかもうなかった。

カウンターだけの小さな店

「きっとご馳走が少なかった子供の頃のことだから、実際以上に美味しく感じられたのだろう」といつしか自分を納得させてしまったのだが、まさか、初めて食べたあの日から30年も経って、しかも名古屋から500Kmも離れた東京の銀座で、再び「あの味」に遭遇しようとは夢にも思わなかった。ある日の昼休み、当時の職場の近くにあった銀座松坂屋へ食事に行くと、7階の食堂フロアの片隅に10人も座れば一杯になってしまうカウンターだけの小さなとんかつコーナーがあった。何気なくそこでヒレカツを注文したのだが、何と!その味こそ小学生の時に食べた「あの味」そのものだったのだ。

ひれかつ定食1,680円

「かつ栄」というその店の職人さんに話を聞くと、確かに昔名古屋の松坂屋に店を出していたが、松坂屋の東京進出に伴って一緒に上京してきたと言う。ここのとんかつは東京では珍しい白揚げという独特の揚げ方で、客の目の前で付ける自家製の荒めのパン粉と軽く揚げあがるサラダ油、吟味された肉とその下地の付け方に味の秘密があるらしい。ソースとともにケチャップがたっぷりと付いてくるのもユニークだ。とんかつにケチャップをかける僕の習慣はここから来ているのだろうか?その後、グルメ本を頼りにあちこちのとんかつ屋を食べ歩いたけれど、私にとってのベストはやはりこの「かつ栄」である。それにしても、子供の味覚を侮ってはいけないと思い知ったことだった。

(2005.05.21 by Gm)

*久々に店を訪ねましたが、いつの間にか「かつ栄」は消滅していました。メニューにはワンコイン・ランチなどが載っていてがっかり。これも世の中の流れでしょうか。手の掛かった美味しいものが次々に消えていくのは寂しいものです。(2011.05.27)