「片手リコーダー」開発秘話

Kando of the Year 2001 受賞
2001年7月20日の夜、自宅でテレビを観ていた私は、偶然フジテレビにチャンネルを合わせた。「砂の中のダイアモンド」というドキュメンタリー番組をやっており、そこでは右手の指に障害を持つ小学生の女の子がそのハンディーにめげず、逞しく生きる姿が紹介されていた。快活で人一倍努力する彼女は、遊びでも運動でも決して弱音を吐くことはなかった。

それまでは何気なく観ていたのだが、話が音楽の授業に移ってゆき、3年生から始まるリコーダーの演奏で、女の子が生まれて初めて努力だけでは克服できない現実に直面し、自暴自棄に陥っていく様子が流れると、次第に画面に惹き込まれていった。20年前の記憶が呼び覚まされてきたのだ。と、その時信じられないものが画面に映し出された。その子のお母さんが落ち込んでいる彼女にプレゼントしたもの、それは何とヤマハの「片手リコーダー」だったのだ。私は目を疑った。"何故こんなところに!これが今本当に全国に放送されているのか?!"

持ち前の負けん気で「片手リコーダー」を猛練習した女の子は、とうとうクラスメイトと一緒に合奏出来るようになり、また元の笑顔と元気を取り戻したことを番組は伝えていた。
"やはりそうだった。やはりそういう子供がいたんだ。あのリコーダーで救われた子供が現実にいたんだ。"心の中で何度も繰り返しながら、不覚にも何年か振りに落涙した。

翌朝出社すると真っ先に電話した人。それはこの「片手リコーダー」の開発者、豊岡工場にいる管楽器設計のY氏である。『昨日のテレビを観たか?』という私の問いかけに、いつもと変わらぬのんびりした調子で『おう、観た。やってて良かったのう。』
観ていてくれた。それで充分だった。あの番組が、評価や賞賛を期待することすら無く、良心と信念に従って黙々と社会に貢献し続けたY氏への何よりのご褒美だったことを私は知っていたから。

今をさかのぼること22年前、私はヤマハ本社の管楽器営業課で教材楽器を担当していた。
ある日、当時リコーダーの設計主任だったY氏が訪ねて来て一枚の手紙を見せた。「東京都補装具研究所」という差出人名の手紙は、指に障害を持つ全国の多くの子供達が、小学3年生から始まるリコーダーの授業で困難を味わい、苦痛を強いられている。この子供たちのために是非ヤマハで片手でも演奏出来るリコーダーを作って欲しいと訴えていた。例えばこのようなものとして、幾つかのイラストも添えてあったが、それは素人の私にも実現不可能と判る構造をしていた。

『おう、どうするよー』と例の調子でY氏が言ったかどうか定かではないが、とにかく一度研究所を訪ねて話を聞こうということになり、後日住所を頼りに二人で研究所を訪ねた。研究所のロビーには義手や義足、人工関節などのサンプルが数多く並べられていて、「補装具」とはこれらのことかと得心した。T先生とおっしゃる担当の先生とお会いし、Y氏から、ご提案のようなリコーダーは製作不能であること。また、数本の指が短かったり足りなくても、リコーダーの音孔を標準の場所と違う所に開け直す「改造リコーダー」で充分対応できることなどを説明した。先生は了解され、後日手に障害がある子供と父兄を研究所に集めるので、そこでリコーダー改造の相談に乗ってあげて欲しいと言われ承諾した。

その日、ロビーには一見普通の子供と母親が30組ほど集まっていた。子供達は快活に走りまわったりふざけあったりしていて、どの顔も明るく屈託無かった。
だが、一人一人の子供の手を取ってみると現実は重かった。障害の程度も部位も一つとして同じものが無かった。子供にリコーダーを持ってもらい、開け直す音孔の位置をマーキングしていくのだが、どうしても「改造リコーダー」では対応不可能な障害があったのだ。リコーダーには計8つの孔が開いているが、めったに楽曲に出てこない最低音のドを犠牲にしたとしても、両手合わせて最低7本の指が必要となる。しかし、実際にはそれ以下の子供も多かった。

そこでY氏は木製リコーダーにピッコロ用のキイを改造して搭載するなどの工夫をし、試行錯誤を繰り返した結果、数ヵ月後にはついに右手または左手さえ健常であれば、片手だけで全音域を吹くことが出来るリコーダーを開発することに成功したのだった。
「片手リコーダー」の演奏は、一つの指で2つのキイを押したり、指を横に滑らせたりすることも要求されるので、普通のプラスチック製リコーダーに比べ、かなり難しいのだが、木製リコーダー用のローズウッドに銀メッキのキイが付いた「片手リコーダー」は見た目はすごくカッコ良かった。

その演奏の難しさが子供の精神的ストレスになるのではないかとの心配から、当初「片手リコーダー」は、東京都舗装具研究所が窓口となりヤマハ銀座店でのみ販売していたが、子供たちの順応性や上達スピードは驚くほど早く、やがて全国で販売することとなった。
価格は1本1本手づくりが故に、ソプラノリコーダー1万3千円、アルトリコーダー3万6千円と高価だったが、これでもメーカーとしては大赤字だったのだ。発売して間もなく『障害者に高いリコーダーを売り付けて利益を得ようとするのか!』という非難の手紙が舞い込んだ時は辛かった。以来22年間、その価格は据え置かれている。

「片手リコーダー」はこれまで5千本以上生産されたという。その1本1本にあの番組と同じような逸話が隠されているのだとしたら、その誕生に関わったことを誇りに思う。

(2002年3月 by Gm )
2002年5月1日 Kando of the Year 表彰式にて喜びを語るY氏