僕のセンチメンタル・ジャーニー
ここは一丁目一番地





名古屋市千種区の覚王山(かくおうざん)にある相応寺(そうおうじ)というお寺で、「アンサンブル・ソノリテ」の小さなコンサートが開かれると知り、聴きに行った。
ソノリテは、ベルリン音大でクラリネットを学んだ日本では数少ないプロのエーラー奏者である青山秀直氏が主宰するクラリネット四重奏団で、同じベルリン音大出身でドイツ・ベームを吹き、ホルツ会員でもある小俣静香さんもメンバーとして参加している。この演奏会はソノリテの2枚目のCD発売を記念した全国ツアーの一環だったのだが、掛川からはるばる名古屋にまで出掛けたのには、もう一つの密かな理由があった。親父の仕事の関係で、Gmは5歳頃から小学校4年まで覚王山の隣町である本山(もとやま)に住んでいたのだ。当時、本山より先には東山動物園と平和公園(という大きな墓地)しか無かったけれど、あれから半世紀を経た今、昔住んでいたあたりがどれほど変貌しているのか、是非この機会に訪れて確かめたいと思った。

当日、早めに掛川を出て名古屋に着き、地下鉄東山線の本山駅で降りて地上に出ると、そこは交通量多い大きな交差点だったが、意外にも進むべき道はすぐに分かった。交差点から遠く緑に包まれた東山動物園を望む景色がほとんど昔と変わらなかったからだ。(おぼろげな記憶では、動物園の入口に大きなセメントの恐竜が立っていたけれど今でもあるのだろうか?)あの頃、駅前にあって母によく連れられて行った「ひより市場」は跡形も無く、小雨降る梅雨空に何となく活気の無い飲食店が立ち並んでいた。

商店街を抜け小高い丘に沿って住宅街を10分も進むと、やがて懐かしい風景が目の前に現れた。猫ヶ洞池(ねこがほらいけ)の堤防だ。この堤防の下の新興住宅街の一番奥に我が家はあったのだ。住所は名古屋市千種区池上町1丁目1番地。真っ白い米国塀が目印だった。ところが、間違いなくこの辺に家が建っていたという場所には大きなお屋敷が連なっていて住所も徳川山町3丁目となっている。池上町1丁目は道を挟んで反対側になっていたが、この一帯はかつて一面水田だった所だ。夏は田んぼの中でザリガニを獲り、冬は水面に張った氷の上で長靴スケートに興じたっけ。蛇や蛙やタニシと戯れたのもここだった。時代の流れの中で、何時しか水田は埋め立てられ宅地化されて区画整理や住所変更が行われたのだろう。

この道の一番奥に我が家はあった。道の右半分は水田だった

気を取り直して猫ヶ洞池(ねこがほらいけ)の堤防に登る。そうそう、幾つの頃だったか、この堤防の坂を手づくりの木のそりに乗って滑り降りる遊びが子供達の間で大流行したことがあった。そりの下にロウを塗ると草をなぎ倒して凄いスピードが出たが、ある時、誰かが転倒した際に目を怪我したとかで禁止されてしまった。まさに「禁じられた遊び」だったが、当時は遊ぶ道具は何でも自分たちの手で、木とのこぎりとトンカチを使って造るしかなかったのだ。あの頃一緒に遊んだ近所の友達や同級生達はどこへ行ってしまったんだろう、、、。

さて、かつては道も無かった堤防の上は今や自動車専用道路になってしまい、横切るのも一苦労だったが、やっと登り切った堤防の上から見る猫ヶ洞池と遠くに見える平和公園は、驚いたことに少年時代のセピア色の記憶の風景とぴたりと一致した。町は大きく変わっても野山は昔のままだった。なぜか「国敗れて山河あり」という、ちょっと関係ない言葉が脳裏に浮かんだ。

湖と言ってもよいほど広大な猫ケ洞池の水辺では何人かが静かな水面に釣り糸を垂れていた。背広にネクタイ姿の不意の闖入者である僕は、怪訝そうな視線を向けられつつ、ひたすらある物を捜して歩き回った。それは水門だ。当時は堤防の水門を手動で開けて池の水を下の水田に流していた。その水門の周辺や水の通る大きな土管の中は、子供たちに恰好の遊び場を提供してくれた。もうとっくに役割を終えたであろう水門が50年間も残っている筈がないと諦めかけた時、あった!水門があった!思っていたより池の端に位置していたのだ。「猿の惑星」のエンディングに出てくる「自由の女神」に比べると、その水門は哀しいほど小さかった。コンクリートの柵は長年の風雨に晒されて「粟おこし」のような荒れ肌になり、水門を開け閉めした大きな一対の鉄のハンドルは根元から乱暴に切断されたらしく、変形したパイプの穴だけが二つ残されていた。水門の上に立ち、改めて猫ヶ洞池を見渡すと、一瞬、隣には腕組みをした着物姿の大きな親父と、黒く耳の長かったコッカー・スパニエルの「ロン」が居るような気がした。

朽ち果てつつある水門から猫ケ洞池を望む

コンサートの開始時間が気になり始めた頃、本山駅に戻る途中でかつての母校、東山小学校を訪ねた。木造だった校舎は鉄筋に建て替えられて、昔の面影を留めるものは何も無かったが、一つだけ思わぬ発見があった。それは校庭の石碑に刻まれた校歌だった。

 霧の晴れ行く朝空に、新しき世の幸せを
 求めて日々に我が歌う、伸びる希望の東山 

一番の歌詞は一字一句記憶通りだったし、溌剌としたメロディーも楽譜が書けるほど完璧に憶えている。「新しき世」というところがいかにも終戦直後に作られた感じだけれど、これから東山小学校に入学してこの校歌を歌う生徒たちはきっと「21世紀」のことだと思うだろうな。ただ残念なことに、この素晴らしい校歌を作った作詞者も作曲者も石碑には刻まれていなかった。

ソノリテのコンサートは素晴らしいものだった。意外にも音響の良いお寺の本堂で、4人のメンバーは何時もながらの緊密なアンサンブルと、ドイツ管特有の温かく柔らかいハーモニーを聴かせてくれた。そして、プログラムの中ほどに演奏された山田耕作の「この道」のメロディーは、数時間前の忘れ得ぬ旅の感傷とシンクロして何時までも耳に残ったのだった。

(2004.06.13 by Gm)