C管クラリネット考
こんなもの要らない、か?



C管(左)はB管(中)より85mmも短い
この度、縁あって、欲しかったC管クラリネットをベルリンで入手し、今後その活用の場を求めるに当たり、改めてC管の存在意義を考えてみた。  
A管の楽譜をB管で吹く、逆にB管の楽譜をA管で読み替えることは、プロ・アマを問わず普通に行われている。ブラームス交響曲第1番第2楽章や、ショスタコーヴィチ交響曲第5番第3楽章のように、読み替えた方が演奏効果が上がる場合はなおさらである。
 
だが、C管はB管より全音高い。半音違いのA、B管ですら音色や吹き心地が異なるのに、一音も違うのだから、その差は倍も大きいと言えるだろう。
実際吹いてみると、音色はエスクラ程ではないにしろ、B管より細身、透明で、鋭く甲高い。B管で容易に、しかもよりマイルドな音色で演奏できるが故に、多様なクラリネットのサバイバル競争の中で、徐々に落伍しつつある楽器なのだ。
 
Gmも今まで楽譜にinCが出てきたら、全てB管で移調して吹いてきた。果たしてそれは正しい選択だったのだろうか?作曲家が指定した通りのC管で吹くべき曲もあったのではないか?長年のわだかまりを拭い切れないでいた。
 
過去に遭遇したinCは、次のような曲だった。
 
モーツァルト:「後宮からの誘拐」序曲、「コシ・ファン・テゥッテ」序曲、ベートーヴェン:交響曲第1番、第5番「運命」第4楽章、第9番「合唱」第2楽章、レオノーレ序曲第3番、「プロメテウス」序曲、ピアノ協奏曲第1番第1、3楽章、第4番、ヴァイオリン協奏曲第2楽章、シューベルト:「ロザムンデ」序曲、八重奏曲第4楽章、交響曲第9番「ザ・グレート」第2楽章、リスト:「レ・プレリュード」(途中B、A管)、ブラームス:交響曲第4番第2楽章、大学祝典序曲(最初の52小節はB管)、ワグナー:「リエンチ」序曲、ショパン:ピアノ協奏曲第1番第1、2楽章、ビゼー:交響曲第1番ハ長調、ロッシーニ:「絹のきざはし」序曲、「セビリアの理髪師」序曲(途中からA管)、スメタナ:「モルダウ」前半、ドヴォルザーク:スラブ舞曲作品46第1番(中間部はA管)、ベルリオーズ:「幻想」(後半)、マーラー交響曲第1番「巨人」(1、3楽章の一部、第4楽章)、第4番(一部)、ヴェルディ「レクイエム」、「椿姫」(B管と半々)、プロコフィエフ「ピーターと狼」など。
 
これらの作品の中には、別に作曲家がC管固有の音色を欲しがったわけではなく、単にハ長調(途中転調して持ち替えることがあるにしても)だからC管で書いた、と思われるものも多い。
(モーツァルト:「後宮からの誘拐」序曲、「コシ・ファン・テゥッテ」序曲、ベートーヴェン:交響曲第1番、レオノーレ序曲第3番、「プロメテウス」序曲、ピアノ協奏曲第1番、ビゼー:交響曲第1番、シューベルト:「ロザムンデ」序曲、「ザ・グレート」など)
 
また、慣習や書法として何調だろうがクラリネットは皆inCで作曲し、後は演奏者にお任せ、或いは、移調が面倒なパート譜作りは弟子にやらせた(?)という無精な作曲家もいたようだ。(J・シュトラウスU、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなど)。これらの中には移調されたパート譜が用意されているものも多い。
 
※以上のような作品の場合、これらをB管またはA管で吹いたからといって何の問題もないだろう。
 
だが「ジュピター」のように、作曲家が敢えてハ長調で曲を書く時は、何か特別な思い入れがある場合もある。
ハ長調は、威厳、喜び、陽気さ、素朴さ、純粋さ、時に天国を表す「晴れ」の調だ。C管の清らかで突き抜けるような音色こそ相応しい。(ベートーヴェン:「運命」、シューベルト:八重奏曲、リスト:「レ・プレリュード」、ブラームス:交響曲第4番、大学祝典序曲、ロッシーニ:「絹のきざはし」序曲、ドヴォルザーク:スラブ舞曲作品46第1番、スメタナ:「モルダウ」の出だしなど)
 
また、ハ長調ではないが、その曲想からC管固有の硬く、際立った音型を欲しがったと思われる曲もある。
(ベートーヴェン:「合唱」、ピアノ協奏曲第4番、ワグナー:「リエンチ」序曲、ロッシーニ:「セビリアの理髪師」序曲、ショパン:ピアノ協奏曲第1番、ヴェルディ「椿姫」、ベルリオーズ:「幻想」、マーラー:「巨人」、第4番など)
 
※以上の場合は、指示通りのC管で吹く方がベターだろう。今後これらの曲を演奏する機会があれば、躊躇なくC管で吹くことにする。
 
ドレスデン・シュターツ・カペレの奏者はB管で吹くと言った
なぜC管?の質問には、Gute Frage!(よい質問だ).とだけ
問題は、作曲家がなぜ敢えてC管を指定したのか(Gmには)よく理解できない場合だ。
その代表格が、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲第2楽章。この曲はニ長調で、第1、第3楽章は穏当にA管が指定されているが、ロマン派を先取りしたように甘美な第2楽章(ト長調)だけは、なぜかC管が指定されている。

通常はB管に持ち替えるか、そのままA管で吹くところだが、ここを指定通りのC管で吹くのにはちょっとした勇気が要る。
たった10小節のソロだが、ほとんど裸でソロ・ヴァイオリンのと対峙しなければならない。おまけにソロの音域が喉音を跨いでいて、音色・音程共に不安定だから、楽器が冷えている場合には特にリスクを伴う。だが何よりの問題は、現代ではソリストも指揮者も聴衆も、C管クラリネットの音色に馴染んでいないことかも知れない。
 
PPPで始まりPPで終わる単純で短いが敬虔で感動的な音楽
ヴェルディもC管を好んで使用した作曲家だが、現在取り組んでいる「レクイエム」にも2箇所にC管が指定されている。
2曲目「Dies irae=怒りの日」の中間部Andanteの40小節間と、5曲目「Agnus Dei=神の子羊」全74小節だ。
前者は、C管に持ち替えても♯4つだから調性との関係はなさそうだ。ラテン語の歌詞との関連性も調べたが、Gmの語学力では因果関係を見出せなかった。

しかし、“神の子羊(=キリスト)、世の罪を除きたもう主よ、永遠の安らぎを与えたまえ”と詠う「Agnus Dei」については、全曲中唯一ハ長調で書かれ、C管がグレゴリオ聖歌を思わせる旋律をなぞるよう指定されている。実際この曲をC管で吹いてみると、クラリネットの語源となったクラリーノ(高音ナチュラル・トランペット)の響きが、教会の天井から降り注いでくるかのような錯覚を覚える。ヴェルディは、この清楚な祈りの音楽の中に、純粋で透明なC管の音色を織り込みたかったのではないだろうか。

C管クラリネットは、もっと見直されるべき楽器だと思う。

(2012/10/24 by Gm)