今年2007年は、ミュールフェルト没後100周年にあたり、彼が宮廷オーケストラの一員として終生活躍し、また、ブラームスとの運命的な邂逅を果たした縁の地、マイニンゲンにおいて「ミュールフェルト・フェスト」が開催された。フェストと言ってもメインの記念行事は5月26日の1日のみ。ドイツ人の音楽愛好家を中心とした参加者は50名足らずで、想像していたよりずっとささやかなものだった。日本からは「ホルツの会」(ドイツクラリネットの愛好会)会員である僕とMwさんの2人だけだったが、このフェストに馳せ参じた50人は、こよなくブラームスのクラリネット作品を愛し、ミュールフェルトに限りない感謝と敬愛の念を抱いているという点において、誰もが人後に落ちないと自負していたに違いない。
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会場となったエリザベーテンブルクの入り口 |
アマチュアながら僕のようにクラリネットを長く吹き続けてきた者にとって、ミュールフェルトは大の恩人である。ほとんど創作活動を休止していた晩年のブラームスは、マイニンゲンで巡り会った若いクラリネット奏者ミュールフェルトの美しい演奏に触発され、彼のためにクラリネット三重奏曲イ短調作品114、クラリネット五重奏曲ロ短調作品115、クラリネットソナタ第1番へ短調作品120-1、同第2番変ホ長調作品120-2を書いたのだ。しかも前2曲には落ち着いた音色のA(アー)管が、ソナタ2曲には半音高く明るいB(ベー:B♭)管が指定されている。もし、クラリネットのレパートリーから、この何れ劣らぬ珠玉の4作品が消えたとしたらどんなにか寂しいことだろう。クラリネット吹き(とヴィオラ奏者)は、ミュールフェルトに幾ら感謝しても、し過ぎることはないのだ。
ここでミュールフェルトとブラームスの関係を簡単におさらいしておこう。リヒャルト・ミュールフェルトは1856年、マイニンゲンの北30Kmにあるザルツンゲンという小さな町に生まれた。裕福ではないが音楽的環境に恵まれて育った彼は、子供の頃から幾つかの楽器をこなし、18歳でマイニンゲン宮廷オーケストラにヴァイオリン奏者として入団するのだが、何と数年後の1879年にはクラリネットに転向して首席奏者になってしまう。クラリネットは独学だから今では全く考えられないことだが、それだけミュールフェルトの音色と演奏技術、そして何より音楽的表現力が卓越していたということだろう。
一方、1880年10月、マイニンゲン公ゲオルクⅡ世に乞われ、ブラームスのよき理解者であったハンス・フォン・ビューローが宮廷オーケストラの新しい指揮者に就任すると、ブラームスは翌年の10月、ブダペストでの初演に先立ち、このオーケストラと出来立てほやほやのピアノ協奏曲第2番の試演をするため、初めてマイニンゲンを訪れることになる。さぞ読みづらかっただろう手書きの楽譜でクラリネットを吹いたのは勿論ミュールフェルトだった。ブラームスの耳はこの時、団員の中に並外れたクラリネット奏者がいることを認識したに違いない。時にブラームス48歳、ミュールフェルト25歳である。因みに、この4年後の1885年にマイニンゲンで初演された交響曲第4番第2楽章の、あの諦念と憧憬とが綯い交ぜになった美しいクラリネットのソロは、ブラームスがミュールフェルトの演奏を念頭に置いて書いたに違いないと僕は確信している。
さて、フェストの内容は別表の通りであった。
とても全てを紹介できないが、今回は前夜祭と新しい伝記本とミュールフェルトのお墓の話をしよう。
・・・現代のミュールフェルト?・・・
フェストの前日、5月25日の前夜祭でブラームスのクラリネット五重奏曲が演奏されるとのことだったので、同日昼過ぎにはマイニンゲン駅に到着した。マイニンゲンを訪れるのは昨年10月に続いて2度目だが、駅前の緑豊かな英国庭園や古風な面影を留める静かな町並みは全く変わらない。先ずはホテルへチェックインしようと歩を進めると、前方から自転車に乗った若い女性が笑顔で近づいて来て、「ようこそ。お待ちしていましたよ!」と手を差し出した。偶然にも彼女こそマイニンゲン博物館の音楽部長で、フェストの主催者でもあるマーレン・ゴルツ女史だった。昨年僕は、思いがけず彼女の好意によってミュールフェルトが愛用していたクラリネットを手に取り、つぶさに観察することが出来たのだ。
ミュンヘンの楽器製作者オッテンシュタイナーの手になるベールマン式のその管体は、現在の重く堅いグラナディラ(アフリカン・ブラックウッド)ではなく、ツゲ(黄楊)で出来ており驚くほど軽い。ベールマン式は、現在ベルリンフィルやウィーンフィルをはじめ、ほぼドイツとオーストリア国内(と日本の「ホルツの会」)のみで使用されているエーラー式やウィーン・アカデミー式の原型となったもので、日本のオーケストラや中・高の吹奏楽で使われているベーム式とはキイの配置や指使いなどが大きく異なっている。
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ミュールフェルトが愛用したクラリネット |
楽器の話だけで紙幅が尽きるのでこの辺で割愛します。
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感動的なクラリネット五重奏曲を聴かせてくれたビエラー氏 |
その名も「ブラームス・ザール」で行われた前夜祭のクラ五は素晴らしかった。クラリネットのハーゲン・ビエラー(Hagen Biehler)氏と弦楽カルテットは地元マイニンゲン劇場オーケストラの団員だったが、最初の一音から最後の一音に至るまで、緻密で緊張感溢れるアンサンブルを披露した。エーラー式クラリネットを吹いたビエラー氏は、終始柔らかく温かい音色で、何の気負いも衒いもなく、ミュールフェルトもかくやと思わせる、しっとりと心のこもった演奏を聴かせてくれた。美しい装飾が施された天井に最後の和音が吸い込まれるように消えていった時、ホールは深い感動に包まれた。だが、演奏が終わって10秒経っても拍手が来ないので困ったビエラーさん、「あのー、終わったんですけど」というように客席に向かってぺこりと頭を下げ、腰を浮かせると、静まり返っていた会場から盛大な拍手が沸き起こった。誰もが自らの手でこの至福の静寂を破りたくなかったのだ。僕は旧東独の小都市マイニンゲンの音楽家達の見事な演奏に感動するとともに、ブラームスとミュールフェルトのDNAが彼らに連綿と受け継がれていることを知り胸が熱くなった。
・・・ブラームス吹き・・・
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本の表紙はブラームスとのツーショット |
今回のフェストの目玉は、ミュールフェルトの新しい伝記本の発表である。このフェストに向けてマイニンゲン博物館のマーレン・ゴルツ、ヘルタ・ミュラー両女史により周到に準備されてきた労作だ。ミュールフェルトについては、過去にイギリスの女流クラリネット奏者パメラ・ウェストンの著作「Clarinet Virtuosi of the past」の中に25ページに及ぶ記述があり、これが貴重な情報源となっていたが、今回の「Richard Muhlfeld der Brahms-Klarinettist」は、これをはるかに上回る500ページもあり、紙も上質のコート紙を使っていて手にずしりと重い。しかも嬉しいことに、左半分はドイツ語だが右半分にはその英訳が載っている。ミュールフェルトの親族が所有している手紙や写真なども豊富に掲載されていて、ミュールフェルトの生涯の全容はこの本によってほぼ明らかになったと言ってよいだろう。不世出の天才クラリネット奏者ミュールフェルトの没後100周年を飾る金字塔であり、これを凌ぐ本はもはや絶後だろうと思われる。
この本は幾つかの特徴を持っているが、その最大のものは、ミュールフェルトの兄(次男)であるクリスチャンが記録していた四男リヒャルトの膨大な演奏活動と、各地の新聞に掲載された演奏会評を網羅していることだろう。つまりミュールフェルトが何時どこで何を演奏し、それがどのように評価されたのかが分かるのだ。評論の中でミュールフェルトの演奏はしばしばヴァイオリンや名歌手の歌唱に喩えられている。また、この本の副題となっているBrahms-Klarinettist(ブラームス吹き)という言葉も1898年の新聞記事に出てくるものだ。この本は当日、参加者に35ユーロで販売され、Mwさんが1冊、僕が2冊購入した。ご興味のある方は出版元のARTIVO music publishing にお問い合わせ下さい。
・・・ミュールフェルトのお墓発見!・・・
昨年マイニンゲン博物館を訪れた際、ゴルツさんにミュールフェルトのお墓はどこにあるのか尋ねた。答えはマイニンゲン郊外とのことだったが、残念ながら行く時間がないと告げると、彼女は親切にもパソコンの中から墓石の画像を捜し出して見せてくれた。それは想像していたよりずっと大きな白い塔のように見えた。僕がクラ吹きの理想と崇めるミュールフェルトは、どうやら丁重に葬られたらしいことを知り、先ずは安堵したものだった。
今回マイニンゲンを再訪するにあたり、必ずやミュールフェルトのお墓参りをしようと心に決めていた。だからマイニンゲンで最初にしたことは、町の観光案内板から共同墓地らしきものを捜すことだった。すると、マイニンゲン駅の東側にFriedhofと表示された広い場所がある。辞書で調べるとまさに「墓地」だ。小さな町にそう何ヶ所も墓地があるとも思えないからここに違いない。歩いても20分位だから前夜祭までには帰って来れそうだ。地図を頭に叩き込んで歩き出した。
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ゲオルクⅡ世(左)と妻ヘレーネの石棺 |
線路の東側は小高い丘になっていて、「山の手」と呼ぶに相応しい立派なお屋敷が立ち並んでいる。標識を頼りに延々と路地を登っていくと鉄柵に囲まれた公園のような場所に着いた。深い緑の中に様々な形をした墓石が連なっている。見たところそう広くもなさそうだし、白い墓石は目立つからきっとすぐに見つかるだろうと軽い気持ちで端からチェックして回ったのだが、これが甘かった。奥行きは意外に深く、探せど探せど見つからない。
その内ひと際大きく立派な墓所に行き当たった。一対の石棺の碑銘を読むと、これこそマイニンゲン公ゲオルクⅡ世とその后であるヘレーネのものだったのだ。地形的にも墓地の中心に位置している。であれば、この二人の寵愛を受けたミュールフェルトの墓もこの近くにある可能性が高いのでは、と気を取り直して周辺を重点的に探索したのだが、とうとう2時間余りが経過して時間切れとなってしまった。
翌日、例の伝記本のページをめくってみると、やはり以前ゴルツさんが見せてくれた白い石柱のような墓石の写真が掲載されている。そこで、長年マイニンゲン博物館で研究に精励してきたヘルタ・ミュラーさんにお墓の場所を尋ねた。「もちろん知っているわよ。場所はね、えーと」。そこで僕は紙とペンを取り出し、「ここに入り口があって、中央にゲオルクⅡ世のお墓がありますよね」と略図を書いて渡す。「そうそう、このゲオルクのお墓の上の方に○○のお墓があって、その先が2つに分かれているけど、ここに△△のお墓があるから、こっちへ曲がってまっすぐ行くとこの辺にあるわ」と小さな丸を書いてくれた。ヘルタさんにとってあの墓地は多くの名士達が眠るマイニンゲンの文化史そのものなのだろう。それにしても昨日図らずも下見をしておいてよかった。
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手入れの行き届いたミュールフェルトの墓地 |
午後3時頃、難解なドイツ語のレクチャーを抜け出し、少々心許ないヘルタさんの地図を持って墓地に向かった。2度目ともなると迷うことなくゲオルクⅡ世のお墓まで辿り着く。ところが今回も事はそう簡単ではなかった。道は2つどころか3つにも4つにも分かれていて一向に見つからない。そこへお墓に花を供えに来た近所のご婦人が通り掛かった。すかさず本を開いてお墓の写真を示す。「ああ、それならこの先にあるわ」。指差す方向へしばらく歩いていくと、あった。高さが3mはある白い墓石に女神のレリーフが刻まれている。写真では分からなかったが、ミュールフェルトの墓石を奥さんのMinnaや子供たちの丸く小さな墓石が取り囲んでいる。ミュールフェルトを中心とした温かい家庭を髣髴させる配置だ。墓石の横のバラの木は幾つもの蕾をつけていた。命日の6月1日に花開くように植えられたようだ。ミュールフェルトは今でもマイニンゲンの人々から愛され慕われている。それを実感できただけでも探し当てた苦労が報われた思いだった。
ブラームスやヨアヒムのみならず、かのワグナーをも魅了したミュールフェルトの演奏とは一体どのようなものだったのだろうか?その音色は?ヴィブラートは?テンポは?ミュールフェルトを聴くことはもはや叶わぬ夢とは知りながら、万が一どこかの国の図書館から彼の演奏の断片でも記録したエジソンの蝋管が発見されたとしたら、僕はそこが地球の裏側だったとしても直ちに馳せ参じるだろう。
(2007.11.26 by Gm )
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