Johannes Brahms und Klarinette |
ブラームスとクラリネット
|
|
|
|
アマデウソ顛末 |
以前、NHKBSの「名曲探偵アマデウス」という人気番組で、ブラームスの「クラリネットソナタ第1番」が取り上げられたことを憶えている方も多いだろう。だが、この放送内容には重大な事実誤認があった。 |
ブラ五のブレス |
ブラームスがミュールフェルトのために、クラリネット五重奏曲を書こうと決めた時、先輩作曲家であるモーツァルトの名作、イ長調の五重奏曲を超えてやろう、という野心を抱いたに違いない。ミュールフェルトも、大家ブラームスにモーツァルトやウェーバーなどを吹いて聴かせ、助力を惜しまなかったと聞く。ブラームスは特に、天国的に美しいモーツァルトの第2楽章ラルゲットにどう対抗するか?熟考したことだろう。 |
シュトルク教授の反論 |
日本ブラームス協会の会誌「赤いはりねずみ第38号(2010年11月27日発行)」に寄稿した拙文「ハンブルクで考えたこと」のある部分に対し、ドイツのキール大学音楽研究所、ミヒャエル・シュトルク教授(Dr.Michael
Struck)より事務局宛に反論が寄せられた。それは、ブラームスのホ短調のクラリネット五重奏曲に関する部分であり、S教授は日本語は読めないものの、日本から郵送されてきた会誌の記事の中にブラームスの手紙の一節が原文で引用されていたので、何が書かれているかピンと来たらしい。これはこれですごいことではある。 |
ハンブルクとブラームス |
ハンブルク生まれの有名作曲家には、メンデルスゾーン(1809−1847)とブラームス(1833−1897)がいる。今年生誕200年を迎えるメンデルスゾーンが、裕福なユダヤ人銀行家の子息だったのに対し、24歳年下のブラームスは、ハンブルク市内の貧民街に住む下層市民の家庭に生まれた。このことが後々までハンブルクとブラームスの関係に微妙な影を落とすことになる。 |
ブラームスの真実 |
伝記を数冊読んだ私は、ブラームスの生い立ちを少しは知っているつもりだった。かいつまんで言えば、ハンブルクの貧民街に生まれたブラームスは、教育熱心な両親と名ピアノ教師の指導のもとで音楽的天分を開花させ、少年時代から居酒屋でピアノを弾いては家計を助けていた、というものだ。だが、これらの幾つかが事実ではなかったとしたら? |
ハンブルクで考えた事 |
昨年4月から今年2010年4月までの1年間、縁あってブラームスの生まれ故郷ハンブルクで生活することができました。サラリーマン卒業を機に、趣味で続けてきたクラリネットをハンブルク北ドイツ放送交響楽団(NDR)のクラリネット奏者ヴァルター・ヘアマン先生の許で勉強したのです。ハンブルクに行くことになったのは偶然の成り行きでしたが、これ幸いとばかりにブラームスゆかりの場所を尋ねて回りました。
|
ブラームスのホ短調クラリネット五重奏曲
|
日頃愛読しているブラームス作品を論じた日本の有名な音楽書の中にこんな一節があり、ずっと気になっていた。ブラームスがミュールフェルトから刺激を受けてクラリネット五重奏曲を書いたというくだりである。<<もっとも、ブラームスがクラリネット五重奏曲を書こうという気になったのは、このときが初めてではなくて、すでに1888年末のクララ・シューマンへの手紙に、ホ短調の「灰色がかったクラリネット五重奏曲」のことが記されている。しかしもちろん、これは陽の光を見るにはいたらなかった。そいうことで、これがのちのクラリネット五重奏曲と具体的にどのような関係にあるのかは明らかではない。>> |
ミュールフェルト・フェスト |
今年2007年は、ミュールフェルト没後100周年にあたり、彼が宮廷オーケストラの一員として終生活躍し、また、ブラームスとの運命的な邂逅を果たした縁の地、マイニンゲンにおいて「ミュールフェルト・フェスト」が開催された。フェストと言ってもメインの記念行事は5月26日の1日のみ。ドイツ人の音楽愛好家を中心とした参加者は50名足らずで、想像していたよりずっとささやかなものだった。 |
ミュールフェルトのクラリネット
|
クラリネット吹き、とりわけドイツ音楽とドイツ管の音色をこよなく愛する者にとって、往年の名奏者ミュールフェルトは大恩人と言ってよいだろう。ミュールフェルトは、その音と技巧と音楽性によって創作活動を休止していた晩年のブラームスに4曲ものクラリネット作品を、しかも名作ばかりを書かせたのだ。特に愁いを帯びた「クラリネット五重奏曲」ロ短調はあらゆる室内楽曲の頂点に立つ作品と言っても過言ではない。 |
ミュールフェルトとブラームス |
二人の出会いについて、ほとんどの音楽書やCD解説、演奏会のプログラム等には次のように記されている。「・・・作曲家としての創造力の衰えを感じ、遺書まで準備したブラームスは、1891年3月マイニンゲンを訪れた際に、偶然宮廷管弦楽団のクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏を聴きその美しい音色と優れた技巧、高い音楽性に大きな感銘を受けて再び創作意欲を沸き立たせ、彼のためにクラリネット三重奏曲と、不朽の名作クラリネット五重奏曲を書いた・・・」なるほど分かりやすい話だ。だが、真実が常に劇的で面白いとは限らない。 |
ハンブルク便り
|
ブラームスが生まれ育った街から・・・ドイツ&ハンブルク検定、フンメル!フンメル!モアス!モアス!、ライスハレ、ブラームス博物館、ハンブルク港、ハンブルク中央駅
|