アマデウソ顛末
 クラリネットソナタ第1番をめぐって
 
 
以前、NHKBSの「名曲探偵アマデウス」という人気番組で、ブラームスの「クラリネットソナタ第1番」が取り上げられたことを憶えている方も多いだろう。
だが、この放送内容には重大な事実誤認があった。

じゃ、「スコットランドの釣鐘草」もクララを忍んでいるのか?

まず番組では、ド、ファ、ミ、レ、ド、という音型がクララを表すメロディーであると紹介されている。
ナレーションによれば、「これは元々クララが作曲したメロディーの一部を、夫シューマンがクララのメロディーとして、しばしば自分の曲の中に引用していました」とのこと。

だが、4度上がって順次下降するメロディーって余りにもありふれていないか?ニュートン以来、上がったものは必ず下がるのだ。「ヒット曲はどれも、ソ、ド、レ、ミ、から始まる」という宮川彬良さんの「どれみふぁワンダーランド」を思い出した。この辺からしてマユツバ臭い。
さて、これからが本題。問題部分を録画から忠実に再現してみよう。
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<ナレーション>( )内Gm補足
ブラームスは、このクララのメロディーを、自分が最初に出版した作品(ピアノソナタ作品1)に引用し、そして再び最晩年の作品(クラリネットソナタ第1番)に登場させたのです。この曲が出来上がると、ブラームスは楽譜をクララに送り、手紙に次のようにしたためました。「この曲に私の作品1が出てきたのにお気づきですか?蛇が尻尾を噛んで輪は閉じられたのです」

氏インタビュー>
「その生涯の終わりに感謝の気持ちを込めるという、、、クララのコードを盛り込んで、クララへの変わらない愛と、シューマン師への尊敬の念、畏敬の念と言うのでしょうか、それを込めたと、、、」

<ナレーション>
ブラームスがクララと初めて出会ったのは二十歳の時。シューマンが病に倒れ、彼女を励ます内に恋に落ちたと言われています。シューマンの死後も二人は結婚することはありませんでした。ブラームスはクララを40年間愛し続けます。最晩年のこの作品に、ブラームスは変わらぬ愛情の証しを忍ばせたのです。
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削除されたカット。「この曲」はクラソナタとは無関係 
この純愛ストーリー、某氏がかつて「パイパーズ」誌に書いた記事そのものである。その後も「レコ芸」への寄稿や、クラフェスでの講演などを通じて「今やほぼ定説となっている」(某氏)そうで、驚いたことにはいつの間にかWikipediaにも同様の文章が掲載されている。
そして今回のTV放送だから、ブラームスのクラリネット作品を心から愛するGmとしては、単なる「都市伝説」と言うには度を越していて、見過ごすわけにはいかない。

なぜなら、視聴者がこの説を鵜呑みにしてしまえば、今後クラ吹きは、ブラームスのクラリネット作品に、ド、ファ、ミ、レ、ド、が出てくる度に、純粋な音楽とは別に、クララを思い描いて吹かなければならなくなるからである。

ブラームスがクララに一方ならぬ愛情と感謝の念を抱いていたことを否定はしないが、だからと言って作曲の巨匠ブラームスが、未来永劫に残る自らの作品のそこここに、恋々とクララの肖像を埋め込んだとは到底思えない。
むしろ、功成り名を遂げた晩年のブラームスは、肉体的な衰えによって経済的に困窮するクララを援助する内に、若い頃とは立場が逆転して次第に横柄で冷淡な態度をとるようになり、年老いたクララを悲しませたという親族の証言もあるのだ。

そもそも、ブラームスがクララにクラリネットソナタの楽譜を送った事実はあるのか?そして、手紙の「蛇が尻尾を噛んだ」という比喩は本当にクラリネットソナタを指しているのか?
その答えは、ブラームスが1894年8月滞在先のバート・イシュルからクララに宛てた手紙の中にある。これをどうひっくり返して読んでみても答えは両方ノー(ナイン)なのだ。

ブラームスがクララへ、クラリネットソナタの楽譜を送った事実はなく、「蛇が尻尾を噛んだ」という話は、1893年から翌年に掛けて編纂した「ドイツ民謡集」の終曲、「ひそかに月は昇る」を指していて、クラリネットソナタとは全く無関係なのだ。

もしこれらの疑義に対して根拠となる出典や引用を示せないなら、放送されたロマンチックな美談は何ら根拠のない想像の産物と言われても仕方なかろう。

NHKの番組スタッフにメールで問い合わせた結果、しばらくして以下のような返事が来た。

Q1、「クラリネットソナタの楽譜をクララに送った」という内容の出典は?
A1
、取材の過程の中で一部の文章のなかに、ブラームスはしばしば楽譜をクララに送ったという記述があり、それをもとに番組に反映させましたが、改めて確認をしたところ、その出典を特定することができませんでした。

Q2、「蛇が尻尾を噛んで輪は閉じられたのです」と手紙の中で言及されている曲は、ドイツ民謡集のことを指しているのではないか?
A2
ご指摘の通り、18948月の手紙では、「蛇が尻尾を噛んで輪は閉じられた」と記述された曲は、ドイツ民謡集をさしています。ただブラームスはこの最晩年の時期、ドイツ民謡集、クラリネットソナタなど複数の曲にクララのメロディーを引用しています。したがって、当番組といたしましては、この言葉には、一つの曲を越え、ブラームスの最晩年の心境、クララへの思いが込められているのではないかと総合的に判断しました。 以上のことを踏まえ、220日日曜日のBS2の放送では、「蛇」の記述が、クラリネットソナタに限定したものであるという誤解を与えないよう、ナレーションを改め、放送させていただきます。

裁判に例えれば、原告(Gm)の完全勝訴と言って良いだろう。 ブラームスが楽譜を送っていないのならば、クララに対し、「クラリネットソナタ第1番」の中に貴女のメロディーを見つけましたか?という問い自体成立しない。それに続く「蛇」の話もまた然りである。

更に、ドイツ民謡集の当該曲のメロディーは、番組で言うクララのメロディー(ド、ファ、ミ、レ、ド、)とは似ても似つかないもので、それは偶然にも、宮川彬良さんがいう、ソ、ド、レ、ミ、で始まるのだ。

ブラームスのクララに対する、もっともらしい作り話の一端が崩れたことは喜ばしいが、衛星から全国に放射された電波は二度と戻って来ない。「覆電神南町に返らず」だ。

 再放送されたナレーションは、以下のように変更されていた。

<初回>
この曲が出来上がると、ブラームスは楽譜をクララに送り、手紙に次のようにしたためました。「この曲に私の作品1が出てきたのにお気づきですか?蛇が尻尾を噛んで輪は閉じられたのです」

<再放送>
彼はその他にも幾つかの作品にクララのメロディーを引用しています。そしてクララに手紙を送り、こうしたためました。「蛇が尻尾を噛んで輪は閉じられたのです」

尺(しゃく)はどちらもぴったり22秒。見事な腕前ではある。更に、ブラームスのポートレートをバックにした「この曲に私の作品1が出てきたのにお気づきですか?」という問題のカットも削除されていた。

あのハイライトシーンから「この曲」という言葉がなくなったら「クラリネットソナタ第1番」にスポットを当てる必然性は無いも同然だが、何れ「名曲探偵アマデウス」の各ストーリーがまとめて出版され、書店に並ぶことを考えれば、正確性を期すに如くはない。

台詞改変、ナレーター手配、収録、編集等、短期間で修正に応じた担当者の誠意と苦労に免じ、この辺で輪を閉じることにしよう。

 2019.05.13 by Gm