かのウラッハの直弟子であるアイヒラー教授が来日され、ホルツ会員にもレッスンをしてくださるという嬉しい知らせがあり、めったに無いチャンスなので早速レッスンをお願いした。曲はブラームスのソナタ第2番変ホ長調の第1楽章。齢を重ねるごとにその滋味が解ってきた曲だ。今年喜寿を迎えられた教授は、以前ホルツのウィーンツアーでお会いした時と同じように矍鑠として、立派な体格に優しい笑みを湛えていらした。
型通りの挨拶の後、では、と、ピアノとAのピッチを合わせていると、いきなり、『弦と合わせるときはAで良いが、ピアノとやるときはB♭で合わせた方が良い。そうすれば管が長いドと一番短いソと中位の下のドの音程が一度に全部チェックできる。シやドだけでチューニングするとソが低くなりがちだから、その3音でバランスをとりなさい。』とのご託宣。(えー!?そんな話初めて聞いたよ。ブラバンじゃあるまいし、、、)と内心思ったが、なるほど論理的で説得力がある。目からウロコ、いや耳からカサブタである。(早速どこかで使ってやろう)
こうして始まったアイヒラー教授のレッスン。曲に沿っての教授のコメントをご紹介しよう。冒頭の数字は小節番号である。
1=『確かに楽譜にはpと書いてあるが、伴奏のピアノの方が音量があるから全体に大きめ
に吹いたほうが良い』 (はーい)
2=『私の楽器ではB♭は他の指を添えると音がより響くよ。君のはシステムが違うから何と
も言えんが、、、』 (せんせ、同じドイツ式じゃないですか)
3―5=『高い音は小さく吹いても聞こえるから低い音をたっぷり吹くように』
(そうしたつもりなんだけど)
10=『5連譜はそれまでの16分音符と同じ長さで吹くつもりで』 (小林先生にも言われたなー)
18=『その16分音符の6番目のレをしっかり吹いて』 (全部聞こえているんだ)
19=『3連譜と16分音符は分けて吹かないように』 (でもウラッハは、、、)
22=『ここのフレーズは日本の太鼓橋のように一つのアーチを描いて』
(でも、ブレスは取るんですよね)
30=『タイで結ばれた音は絶対音価以上に伸ばしてはいけない』 (解ってはいるんですが)
44=『ピアノとの対話を大事に。メロディーがピアノに回ったら楽譜にfとあっても控えめに』
(余り楽譜に囚われなくても良いのね)
65=『最低音のミはppだけどしっかり舌を突いて』 (足りなかったかなー)
70=『des→eで薬指より小指が先に上がってるよ。指を上げる時は一番上の指に合わせて
上げるように』 (細かいとこまで見てるなー)
78=『この楽章では3連符は飾り。8分音符が主役と思え』(3連符が主役じゃないのか)
89=『そう、そこだ。もっともっとクレッシェンド!』(く、苦しい)
92=『ここの3連譜がこの楽章の頂点だよ』(僕もそう思います)
102=『再現部の前のリタルダンドは書いてないし、やり過ぎはいけない』(すみません)
114=『ピアノの5連符を待って頭を合わせるんだ』(全然聴いていませんでした)
149=『同じようなパターンが2度出てくるけど、初めのと違うところは上のCに上ることだ。
だから2回目はmp位から始めて余りディミヌエンドしないように』
(やっぱ、プロでもCへの跳躍はリスキーなんだ〜)
154=『このdesは意外性があるだろ。聴いてる人にそれを意識させるようにしっかり吹いて』
(はい)
162=『Tranquilloは速度じゃない。遅くしないで淡々と』(良いとこなんでつい、、、)
170=『コーダは余り遅くしないように。まだ1楽章が終わったばかりだからね』(なるほど)
総括=『指がややこしい所に来ると呼吸が浅くなってるよ。常に深い息で音を支えて』
(う、痛い所を突かれた)
……終始熱のこもったレッスンは1時間を優に超えて終了した。しかも次のご予定が迫っていたので、渋々切り上げたという感じだった。時に大きなゼスチャーを交え、時にご自身のハンマーシュミットをお吹きくださったアイヒラー教授の真摯な情熱に圧倒された。その音は決して往年の美音ではなかったけれど、ご自身が受け継いだウィーンの伝統を、日本人のしかもアマチュアである私にも妥協せず、また惜しげもなく伝えてくださったアイヒラー教授に深く感謝したい。
ロルフ・アイヒラー教授のプロフィール
アルフレート・プリンツと並び、レオポルト・ウラッハ最後の弟子。
1951年、ウィーン・モーツァルト協会主催のコンクールで第1位を獲得。
1955年にウラッハが倒れた後、彼の代わりに演奏することもあり、若い頃からウィーンのすべてのオーケストラ及びオペラで演奏をした。
1956年から1988年まで、ウィーン・トーンキュンストラー・オーケストラの首席奏者を務め、退団後も1999年まで客員奏者として活躍。
日本には、1952年夏から1954年秋まで滞在し、現NHK交響楽団の首席客演奏者を務めるとともに、東京芸術大学のクラリネット科で指導に当たった。二年の滞在期間中、まだ教材に乏しかった我国に残してくれた一冊「Scales for clarinet」は、日本でクラリネットを学ぶ者にとって必携の音階教則本となり、現在に受け継がれている。77歳となった現在もなお、精力的に後進の指導に当たっている。