序にかえて
エーラー吹きの憂鬱


エーラー吹きのバイブル

Gmがクラリネットを吹き始めた中学生の頃、身の回りにはベーム式のクラリネットしかなかったし、ベーム式こそが最も進化し完成されたクラリネットだと信じて疑わなかった。

だが、より一層クラリネットに興味を抱き、レコードの解説文やアンソニー・ベインズ著「木管楽器とその歴史」などを読み進むにつれ、どうやらドイツやオーストリーではベーム式とは根本的に異なるエーラー式(ドイツ式+エーラー式+ウィーンアカデミー式)というクラリネットを吹いているらしいと知ることになる。
しかも(まずいことに?)私がレコードを聴いて好きになった奏者、レオポルド・ウラッハ、アルフレート・プリンツ、ハインリッヒ・ゴイザー、ヨースト・ミヒャエルス、カール・ライスター達は、何と全員がエーラー吹きだったのだ。

そこで当時、エーラー式クラリネットを手に入れるどころか目にすることすら叶わなかったクラリネット熱中少年は、自分のベーム式クラリネットにドイツ製のマウスピース(Zinner)やリード(Steuer)を付け、厚いゴムパッチを貼ったり、リードを紐で縛ったりして、何とかドイツ管の音を出したいと悪戦苦闘を始めたのだった。好きな奏者の音に何とか近づきたいという純粋な欲求と一途な努力を誰が非難できるだろう。                       

現在では、エーラー式クラリネットに関する情報も増え、楽器の入手も比較的容易になったことは嬉しい限りだ。だが、未だ日本においてはエーラー式に対する誤解や偏見が根強いのは哀しいことである。
エーラー式の魅力は、全音域にわたるムラのない響きと吹き心地であり、高音域における落ち着いた音色やピアニッシモの美しさでもあるのだが、エーラー式を見たことも吹いたこともない99%以上を占めるベーム吹きに向かってエーラーの美点を熱心に説いたところで、空しいばかりか却って反感を買い、理不尽な中傷誹謗に晒されることになる。曰く、『ベームが下手だからエーラーに逃避したのだろう』、『クラ吹きというよりクラのコレクターではないのか?』、『今更エーラー式など話題にするのも恥ずかしい』(某邦人有名奏者)云々。

だが、エーラー吹きも元をただせばベーム吹きだったのだ。理想の音を追い求め続ける内に、いつしかベーム式の出自や性能に疑問や限界を感じ、「エーラーへの道」を歩み始めてしまったエーラー吹き達は、元のベーム信者達から“悪魔のささやきに負けた転向者”というレッテルを貼られ、中世の伴天連(バテレン)や切支丹(キリシタン)のように異端者扱いされているのだ。

『C'''はクロス・フィンガリングの場合も鍵を用いた場合も、比較にならないほどベーム式の同じ音よりすぐれている。これは表情に富んだ演奏のためには予測しがたいほどの助けになる。』
(アンソニー・ベインズ著「木管楽器とその歴史」奥田恵二訳、音楽の友社)
オタクってもしかして、これじゃー?

それら謂われなき差別を耐え忍ぶエーラー吹きの心の支えは、あのモーツァルトやブラームスやウェーバーに創造の霊感を与えた偉大な奏者達、シュタードラー、ミュールフェルト、ベールマンと同じDNAを持つ由緒正しいクラリネットを吹いているのだという揺ぎ無い信念と誇りなのだ。

エーラー式を吹くことによって初めて見えてくる歓喜の世界へ、ベーム吹き達を導いてあげたいと念じながらも、エーラー吹きはその道のりが長く険しいことを知っている。理想の響きに到達するには神が与えた数々の試練に立ち向かう勇気と忍耐と知恵を備えていなければならない。幾多の困難を乗り越えた者のみが立派なエーラー吹きとして真理の高みに立つことを許されるのだ。

多くの善良なるエーラー吹きは、ベーム吹きとの無用なトラブルを避けるため、決してベーム式に対する批判を口にすることなく、むしろエーラー吹きであることをひた隠しにしてひっそりと修行している。
そして、「日本のエーラー通り」と呼ばれる新宿の大久保〜新大久保界隈で見知らぬエーラー吹きらしき人に遭遇した折には、互いに確認のサインとして左手の中指と親指で輪を作りそっと見せ合うのだ。その形こそ、エーラー吹きの証たる上のCの指使いなのである。

(Last Revised 2019.02.06 by Gm)