“ツェレツケ”という名前は以前よりホルツの会のOmさんから耳にはしていた。彼女がベルリン国立音大に留学していた時の先生だったからである。教授はライスターと同じく、ハインリッヒ・ゴイザーの弟子であり、ベルリン・ドイツオペラで長年首席奏者を務めたそうだが、現役時代から弟子のマウスピースを削るのを何よりの生きがいとしていたようなのだ。上手くいく場合もあればそうでない場合も結構あったらしい。
「もう、何個壊されたか分かんないよー。だからレッスンには本命のマッピは持っていかないようにしていたの」、とは元生徒の告白である。
だが最近では、ライスターやバンベルク交響楽団のクリストフ君も使っていると言うし、何とホルツのYk嬢も現在ヴリツァーM5ツェレツケ改を使用中とのことなので、単に思いつきで削っている訳でもなさそうだ。
今回小林さんは、3年以上待ってやっと手に入れたクロンターラーのB管(A管はまだ来ない!)用マウスピースを教授の半完成品ストックの中から探すという。「ツェレツケ氏はZinnerのマウスピースが大嫌いだから、それをベースにしたViottoなんか持っていくと、何だこのマッピは!お前はアホか?みたいなことを言われますよ。GmさんもG3で試してみてください。何でもズケズケ言いますが、とても人の良いおじさんですよ」などと、もう10回以上訪問しているという小林さんは余裕綽々である。
午後3時。ベルリン市内の住宅街にある教授のマンションを訪れると、小柄な白髪の老人が出迎えてくれた。眼光は鋭く、いかにも頑固そうだが、一目見て人柄の良さを感じた。何だかウマが合いそうだ。挨拶もそこそこに、早速小林さんのマウスピース選びが始まった。
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教授の前で楽器を吹く小林さん |
小林さんが広間で、先ず自分のマウスピースを使って楽器を吹く。じっと聴いていた教授が感想を述べる。それに対し小林さんが意見を言う。2人のやり取りはまるで口論をしているかのように真剣そのものだ。すると急に2人は広間の隣りにある小さな工房に入って、ストックの中からマウスピースを選び始める。選んだマウスピースを教授が吹いては計測器で計り、幾重にも重なった紙やすりから適当な粗さのものを選んでは、それにマウスピースのバーンを擦り付ける。
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工房で話す2人には長い信頼関係があるようだ |
時には直線的に手前に引き、時には途中からスピードを変え、時には8の字を描くように手首を捻る。その様子はまるで名書家が毛筆を揮っているかのようだ。「これでどうだ」とばかりに差し出しされたマウスピースを小林さんが受け取り、また広間に戻って吹いてみる。そんなことが何度か繰り返されたが、僕はひたすら2人の邪魔にならないように逃げ回っていた。
小1時間が経過して、どうやら小林さんが満足できるマウスピースが見つかったようだ。傍で聴いていても以前のものより艶と言うか、品位と言うか、音の密度が高まったように感じられた。
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音を聴いている時はまるで鬼軍曹のように恐い |
「さあ、次はGmさんの番ですよ」と、小林さんに促されて楽器を組み立てる。そこへ「普段使っているマウスピースで吹いてみなさい」と教授の声。来た〜〜〜!!実は、小林さんからのメールで「教授が好きなマッピはヴリツァーのK4かC4」と教えてもらったので、急遽年末にイシモリに行き、中古だが新品同様のC4を1個買って楽器に付けておいたのだ。音質は昨年Viotto邸で選んだG3の方が好きだったので、この本命を壊されたらたまらないし、中古のC4なら、まあどうなってもいいや、という計算だったのだ。
仕方なくバッグからG3を取り出すと、教授はそれを灯りにかざして「どこのだこれ?Vioって何だ?」と聞く。すかさず小林さんが「Viottoですよ」と一言。それを聞いた教授、「Viottoだって?!、ヘン!」と言ってG3を放り投げそうになった。ほらね、言った通りでしょ?と小林さんがいたずらっぽく僕を見て笑っている。僕は素早く教授の手からG3を救出すると、「いやあのー、ヴリツァーのC4も持ってます」と弁明した。「そうか、どれ見せてみろ」。教授の機嫌が少し治ったようだ。やれやれである。
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神の手が削ったC4 |
教授はC4を工房へ持ち込むと、すぐさま言った。「なんだ、中古じゃないか」。先端に少し変形した部分があると言う。さすがの眼力である。後は小林さんが座っていた席に座らされ、教授の作業をつぶさに観察することが出来た。教授は、合金で出来た小さな金型のようなものを持っていて、そのアーチ状の部分をマウスピースにあてがって光にかざす。光の透過部分が無くなるまで凸部を削るのかどうか、その辺のノウハウは定かではないが、きっとその金型には、50年以上に亘る経験と実績とで培われた理想のバーンが模られているに違いない。
待つこと暫し、「これを試してみなさい」、と渡されたC4を広間で吹く。驚いたのは全くの別物になっていたこと。息がスムーズに入るし、音色が柔らかく、しかも多彩になったような感じだ。教授も小林さんも「中々良いじゃないか」と言ってくれる。たった数分間で、たったの数こすりで、中古のさして良くないマウスピースを新品以上に仕上げてしまう教授は、まさに「神の手を持つマイスター」と呼ぶに相応しい。
教授に厚くお礼を述べて帰路に着く道すがら、小林さんが言った。「今回は2人とも上手くできてラッキーでしたね」。僕はそれ以上にプロ同士の真剣勝負の場に立ち合わせてくれた小林さんに深く感謝した。
(2008/1/16 by Gm)
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