ハンブルクとブラームス
さすらい人、ヨハネス




ハンブルク生まれの有名作曲家には、メンデルスゾーン(1809−1847)とブラームス(1833−1897)がいる。今年生誕200年を迎えるメンデルスゾーンが、裕福なユダヤ人銀行家の子息だったのに対し、24歳年下のブラームスは、ハンブルク市内の貧民街に住む下層市民の家庭に生まれた。このことが後々までハンブルクとブラームスの関係に微妙な影を落とすことになる。

ブラームスの生家。2階左がブラームス家
ブラームスの父ヤーコプ・ブラームスは、ハンブルクの北西100Kmに位置するハイデという田舎町の貧しい商人の家に生まれたのだが、音楽家になろうと思い立って様々な楽器の演奏技術を習得し、単身ハンブルクに上京した。まさにグリム童話に出てくる「ブレーメンの音楽隊」の動物達のように、大都会ハンブルクで一旗上げようと考えたに違いない。船員相手の酒場や娯楽施設が多いエルベ川沿いの港町ハンブルクの楽団で、ビューグルやホルンやコントラバスなどを演奏して生計を立てていたヤーコプは、24歳のある日、 没落していたとはいえ中産階級の出身で、17歳も年上のクリスティアーネに、知り合って一週間だというのに唐突に求婚して3人の子供をもうけた。その第2子、長男として生まれたのがヨハネス・ブラームス。ヨハネスと母クリスティアーネは終生強い愛情の絆で結ばれた。

ブラームスが生まれた家は第2次世界大戦の空襲で焼失したが、戦前に撮られた写真によると、やや傾き加減の大きな木造7階建て集合住宅は、よく崩壊しないものだと感心するくらいぼっこい。
シューマンがローレンスという画家に
書かせ所持していた20歳のブラームス
父ヤーコプは、ヨハネスに自らヴァイオリンやホルンなどを教えるとともに、貧しいながらも精一杯の教育を与えた。勿論当初家にはピアノなどなかったが、ヨハネスがピアノに興味を示すと、コッセルというピアノ教師の下でピアノと音楽の基礎を学ばせた。たちまち音楽的な才能を発揮したヨハネスを、コッセルは自分の恩師でもあるマルクスゼンという、当時ハンブルクでも指折りの音楽教師のもとに連れて行った。マルクスゼンもブラームスの熱意や勤勉さに感銘を受けるとともに直ちに彼の天賦の才を見抜き、ブラームスを一流のピアニスト兼作曲家にすべく全知全霊を傾けた。1847年、メンデルスゾーンが他界した時、マルクスゼンは友人に、「芸術の巨匠が一人神に召されたが、より大きな才能がブラームスの中に開花するだろう」と語ったという。その預言は的中した。

だが、ちょうどこの頃、13歳のブラームスは、苦しい家計を助けるために歓楽街の酒場やダンス・ホールでピアノを弾くようになる。 日本で言えばまだ中学生だ。荒くれた船員や売春婦がたむろし、紫煙と嬌声が渦巻く酒場での演奏が、ブラームスの健康や人格形成に影響を及ぼさないはずがない。事実、衰弱したヨハネスを心配した両親は、14歳と15歳の夏をハンブルク郊外のヴィンゼンというのどかな村で静養させた。酒場でのピアノ演奏は、即興演奏や変奏の技法を身につけさせたが、多感な少年期を苦学に費やし、嫌というほど人間社会の裏側を見たであろう。

この部分には異論がある。ブラームスは決して酒場などでは演奏しなかった。それは父親の事で、ブラームスがピアノを弾いたのは、ハンブルクの西に位置していた(今はない)綺麗なカフェ・レストランだったという説である。これに就いては今後検証したい。

ブラームスは、誰に対してもハンブルク時代の出来事を話したがらなかった。だが最晩年になって幼少時代を振り返りこう言ったという。「私は実によく耐えた。だが、今ではその惨めな体験が私の成長に必要なものだったと確信している」。
ブラームスの理解者シューマンとクララ
ブラームスは成人するまでにハンブルクで幾度かの演奏会を催し、一人前のピアニストとしての名声を確立していた。また、何曲ものピアノソナタや合唱曲などの作曲活動にも勤しんだ。そして1853年4月二十歳の時、ハンガリーの若手亡命ヴァイオリニスト、レメーニのピアノ伴奏者として演奏旅行に出かけ、初めてハンブルクを後にする。結局、レメーニとは仲違いをして伴奏者をお払い箱となったものの、この旅先でブラームスは、当代随一のヴァイオリニスト、ヨアヒムや、ブラームスの才能を、自身が発行する芸術評論誌で広く世に知らしめたロベルト・シューマン、そして終生尊敬し合い深い愛情を持って親交を結んだシューマン夫人のクララなど、掛け替えのない音楽家達と知り合うことができたのである。これらを足掛かりとしてブラームスはその後、優れたピアニストとして、またベートーヴェンの系譜を継ぐドイツの正統的作曲家としての名声をゆるぎないものにしていった。

1892年(59歳)ウィーン、カールスガッセ4番地の書斎にて
しかし、この生来内気でお世辞にも人付き合いが上手いとは言えない天才作曲家を温かく迎え入れたのは、生まれ故郷のハンブルクではなく、遠く離れたオーストリアのウィーンだった。ウィーン市民はブラームスの人柄と音楽を心から愛し、音楽上の要職を次々と彼に与えて活躍の場を提供したのに対し、ハンブルク市は2度までも、フィルハーモニー協会音楽監督という最高ポストをブラームス以外の音楽家に与えてしまったのだ。ブラームスが生涯ハンブルクに愛着を持ち、そこでの安定した生活を強く願っていたにもかかわらずである。

その理由は明らかではないが、ブラームスが下層階級の出身であることが大きく影響したものと推測されている。ブラームスの失意と傷心は如何ばかりだったろう。ブラームスはやむなくウィーンを定住の地と定め、市内を転々とした後、38歳から63歳で亡くなるまでの25年間、カールス・ガッセにあるアパートを終の棲家としたのだった。

そんな因縁もあってか、ブラームス壮年期の作品群、「ドイツレクイエム」(35歳、ブレーメン)、「ハイドンの主題による変奏曲」(40歳、ウィーン)、「交響曲第1番」(43歳、カールスルーエ)、「交響曲第2番」(44歳、ウィーン)、「ヴァイオリン協奏曲」(45歳、ライプツィヒ)、「ピアノ協奏曲第2番」(48歳、ブダペスト)などは、あたかもハンブルクを避けるかのように初演されている。

ハンブルク市は1889年になって、ようやくブラームスに名誉市民という称号を授けたが、その時ブラームスは既に全4曲の交響曲を完成させ、56歳の押しも押されぬ巨匠に達していたのだ。それでもブラームスは大感激し、ハンブルク名誉市民証書を誇らしげに知人に見せたという。

現在、ハンブルク市内の一角にこじんまりとしたブラームス博物館があるが、運営は市ではなく民間団体で、1週間に4日しか開館しない。事の成り行き上たいした展示物が無いからにしても、故郷ハンブルクがドイツの国民的大作曲家ブラームスに示し続けるこの頑なまでの冷淡さは一体どこから来るのだろう。

(2009.04.02 by Gm)

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