幸運な巡り合わせ
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ハンブルクのシンボル、市庁舎 |
昨年4月から今年2010年4月までの1年間、縁あってブラームスの生まれ故郷ハンブルクで生活することができました。サラリーマン卒業を機に、趣味で続けてきたクラリネットをハンブルク北ドイツ放送交響楽団(NDR)のクラリネット奏者ヴァルター・ヘアマン先生の許で勉強したのです。ハンブルクに行くことになったのは偶然の成り行きでしたが、これ幸いとばかりにブラームスゆかりの場所を尋ねて回りました。それらは追い追い紹介するとして、なぜはるばるドイツまでクラリネットを習いに行ったのか?については「赤いはりねずみ」第35号の拙稿「ミュールフェルト・フェスト」で少し触れた、ドイツ式クラリネットについて説明しなければなりません。
ドイツ式クラリネットについて
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ベーム式(左)とエーラー式(右) |
クラリネットには2種類のシステムが存在しています。18世紀初頭ニュルンベルクでクラリネットが誕生して以来のドイツ式(エーラー式、ウィーン・アカデミー式等)と、19世紀半ばにフランス、パリで開発された機能的なベーム式(フランス式)です。現在、ドイツとオーストリーを除く世界各国では殆どベーム式が使用されていますが、日本も例外ではなく、吹奏楽、ポピュラー、ジャズ、クラシック等あらゆる音楽ジャンルで目や耳にするのはベーム式のクラリネットです。一方、ベルリンフィルやウィーンフィルを始め、独・墺の一流オーケストラでは伝統的にドイツ式クラリネットを採用していて、ベーム式では入団オーディションを受けることすらできません。
両者の違いは、指使い、管の内径、マウスピース、リード等多岐にわたりますが、それらの結果として音色がかなり異なります。ベーム式が明るく華やかな音色であるのに対し、ドイツ式はダークで温かみのある音が特徴です。モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、そしてブラームスも、このドイツ式クラリネットのために数々の名曲や名旋律を書き遺しました。独・墺のオーケストラが今なお、ベーム式よりも指使いが格段に難しいドイツ式クラリネットに固執しているのは、伝統的な音色を守ろうとする姿勢の表れに他なりません。
高校時代、何の疑いもなくベーム式クラリネットを吹き始めた私は、L・ウラッハやA・プリンツ、H・ゴイザーやK・ライスターが奏でるドイツ式クラリネットの音色に強い憧れを抱き続け、15年ほど前に思い切ってベーム式からエーラー式クラリネットに転向しました。きっかけは、当時所属していた社会人オーケストラでブラームスの交響曲第4番を吹くことになったからでした。ブラームスの音楽には、渋く落ち着いた音色が不可欠だと感じたのです。以来、ドイツ式クラリネットの指導者や情報が極めて少ない中で試行錯誤を繰り返してきましたが、運良く2007年、NDRと共に来日中だったヘアマン先生の素晴らしいレッスンを受ける事ができました。この事が今回の渡独の端緒となったのです。
ハンブルクの生活
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凍結したアルスター湖の上を歩く市民 |
私のような年齢でドイツに3ヶ月以上滞在するには「語学留学ビザ」を取得するしか方法がありません。そのためには現地ハンブルクの外国人局へ、語学学校の入学許可証の他、健康保険の加入証、ハンブルクの住民票、生活費の残高証明書等の提出が義務付けられています。また、語学学校の授業時間も週20時間以上という条件があるので、平日は語学学校に通い、週末にクラリネットのレッスンを受けるという生活がほぼ1年間続きました。ベルリンに次ぐドイツ第2の都市ハンブルクは、水と緑が豊かな美しい街です。緯度は北海道の北端よりも高く、真夏でも高原のような涼しさでしたが、一転、冬はどんよりと厚い雲に覆われ太陽はめったに顔を出しません。昨年の冬は、街の中心にある広大なアルスター湖が15年ぶりに凍結し、幸運にも湖上を歩く事ができました。ハンブルガー(ハンブルク生まれの人)の話では、昔はしばしば凍結したそうですから、ブラームスも少年時代にアルスター湖の氷の上でスケートやそり滑りに興じたことでしょう。
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フールスビュッテルの町並み |
北ドイツの人々は、南に比べ少し冷淡で気取っていると聞いていましたが、私にはちょうど心地よい距離感に感じられました。ハンブルク空港に近いフールスビュッテルという町に家を借りましたが、気難しい顔をして歩いている近所のおじさんに挨拶すると、これ以上ないほど相好を崩して挨拶を返してくれます。ある時、来客があるので庭の椅子を借りてよいか大家さんに尋ねました。すると大家さんは、地下室から大きな丸テーブルと椅子を4脚も運んできてくれました。また、それを聞きつけた近所のおばさんが訪ねて来て、テーブルクロスとナプキンを貸してくれたのです。ちょっとシャイで取っ付きづらいですが、内心はとても親切で思いやり深いのが北ドイツ人に共通する性格なのかもしれません。
折しも円高・ユーロ安の影響で、物価は日本よりも安く感じました。スーパーマーケットでカート一杯に食料品を買い込んでも4,5千円程度で済みました。また週2回、近くの広場で開かれる市場では、取れたての新鮮な野菜や美味しいハム・ソーセージ類がより安く手に入ります。そして海の幸も想像以上に新鮮で豊富でした。また、ハンブルクから少し足を伸ばせして、ブレーメン、リューベック、リューネブルク、シュベリーン、ツェレといった歴史ある美しい街々を探索できたのもよい思い出となりました。
ブラームス残影
生家跡の記念碑
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ブラームス生家跡の記念碑とレンガ造りのアパート |
ブラームスはハンブルクに生まれ育ち、20歳になるまで他の都市へ出ることはありませんでした。私が真っ先に向ったのは、ブラームス生誕の地でした。「地球の歩き方」にも載っていないこのスポットは、クラシック音楽の中心地ライスハレ(旧ムジークハレ)から歩いて数分の、古いアパートが立ち並ぶスラム街のような一角にありました。ブラームスのレリーフを埋め込んだ立派な記念碑の周囲はよく整備されベンチも置かれています。ブラームスの生家Schlüters Hofは、第2次世界大戦中に焼失しましたが、戦後間もなく建てられたと思われるレンガ造りの粗末なアパートは、写真でよく知られている生家を髣髴させます。これらの古いアパートは、現在アトリエやライブハウス等に使われていますが、老朽化している上に開発の波がすぐ近くまで押し寄せてきているので、いつ取り壊されてもおかしくない状況です。なお、生誕地の住所として知られるSpeckgang或いはSpeckstraßeという通りは現存していませんでした。
ブラームス博物館
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ウィーン墓地と同じI・コンラート作のブラームス像が迎えてくれる |
ブラームス博物館は、ハンブルクの歓楽街として名高いザンクトパウリ地区から歩いて5分程のペーター通りにあります。開館の曜日や時間が案内書によってまちまちでしたが、今春作られた新しいパンフレットによれば、夏季は火曜から日曜の、冬季は火、木、土、日の、何れも10時から17時となっています。入館料は4ユーロ。運営は、ハンブルク・ブラームス協会が担っているようです。受付けのおじさんの話によると、来場者の何と4割が日本人とのことでした。1階がハンブルク時代、2階がウィーン時代に分かれていて、ブラームスの生涯を時系列的に概観できますが、展示品の多くはリューベック、ベルリン、ウィーン等からのコピーやレプリカで、ここのオリジナルは殆どありません。なお、2階奥には資料室があり、日本ブラームス協会の「赤いはりねずみ」も数冊展示されていました。
ミヒャエル教会
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感動的だったドイツレクイエムの演奏 |
銘板の一番右がブラームス洗礼の証し |
ブラームスが洗礼を受けたミヒャエル教会は、ブラームス博物館と目と鼻の先にあり、鐘楼の展望台からはハンブルク市内や港が一望できます。ブラームスが洗礼を受けたことを示す銘板は、祭壇に向って左手後方の階段脇に設置されています。昨年の夏、教会の内装が全面改修され、祭壇や2基あるパイプオルガンが華麗によみがえりました。まさに息を呑む美しさです。11月、この新装なったミヒャエル教会でブラームスのドイツレクイエムを聴くことができました。ソリスト、合唱、オルガン、オーケストラが一体となった敬虔な祈りが美しい教会内を満たしました。演奏終了後、満員の聴衆は拍手一つせず、感動をかみ締めるかのように肩を抱き合いながら静かに家路につきました。この時ほどハンブルクへ来ることができた幸せを実感したことはありません。
オールスドルフ墓地
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ハンス・フォン・ビューローのお墓 |
義母カロリーヌの墓 |
借家があったフールスビュッテル駅から地下鉄で2つ目の駅オールスドルフには、ドイツ最大といわれる墓地があります。墓地というよりは広大な緑地公園で、園内には花が咲き乱れ、周遊バスが走り、道路からは墓石すら見えません。この墓地の一角にハンス・フォン・ビューローが眠っています。管理事務所に行くと、ここに葬られている著名人のリストがもらえますが、そこにビューローの名前はありません。私はビューローのフルネームを示して番地を検索してもらい、どうにか墓所にたどり着くことができました。ビューローのお墓は大きく立派でしたが、訪ねる人もないのか少し荒れた様子だったので、後日ブラシを持参してクモの巣や枯葉を取り除きました。墓前には1978年に埋設された石版がありました。「ビューローに敬意を込めて」と題された石には、カラヤン、ショルティ、クーベリックといった当時の名だたる指揮者27人の名前が刻まれています。なおオールスドルフ墓地には、ブラームスの姉エリーゼや義母カロリーヌも眠っています。
ライスハレ
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ライスハレとブラームス広場のモニュメント |
長い間ムジークハレの名前で親しまれてきたこのクラシック音楽の殿堂は、5年前に創立者ライス夫妻の名前を採って、設立当時の名称ライスハレへと呼称変更されました。1908年に竣工したこの堂々たるバロック様式の音楽ホールは、外観も内部も美しく保存され、毎晩のようにコンサートが開催されています。パイプオルガンを備えたコンサートホール内は絢爛豪華で、日本のTVCM(西村智美:ファのない世界編)にも使われました。何よりうれしかったのは、日本よりかなり安い料金で一流の演奏を楽しめることでした。私がいつも指定した3階中段の席はわずか11ユーロ。しかもそのチケット代金には往復の交通費が含まれているのです。
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ブラームスはミューズから霊感を得ていた? |
ライスハレ自慢の一つが、2階ロビーにあるマックス・クリンガー作のブラームス像。大理石の大きく立派な彫像です。ブラームスの背後にまとわりつき耳元でささやくのは、ギリシャ神話の音楽の女神ミューズだそうです。ライスハレの脇には、ブラームスの青年、壮年、晩年のポートレートが刻まれた直方体の石、通称ブラームス・キューブがあります。ライスハレが面している広場はカール・ムック広場と呼ばれていましたが、ブラームス没後100年の1997年にブラームス広場と改称されました。この広場にはブラームスへのオマージュというモニュメントもあります。周辺にはブラームスの名を冠した建物が多く見受けられます。かつてブラームスに冷淡だったといわれるハンブルクが、今やブラームスにあやかり過ぎでは?という気がしないでもありません。
ハンブルク大学音楽研究所
ここの図書館には音楽に関する書籍や楽譜が多数収められていて、誰でも無料で利用することができます。僕が調べたかったのは、長く絶版となっているブラームスとクララの書簡集でした。ある音楽書に、ブラームスは1891年に作曲したクラリネット五重奏曲ロ短調作品115より以前に「灰色がかったクラリネット五重奏曲」を書いていることを、1888年末のクララへの手紙の中に記している、と書かれています。これにはクラリネット吹きの端くれとして重大な関心を持たざるを得ません。1888年12月14日ウィーンからクララに宛てた手紙にそれはありました。ここで二人は、翌年早々フランクフルトで開催される室内楽コンサートで演奏されるべき曲目を論じています。主催者であるクララ側からクラリネット五重奏曲はどうか?と提案され、
Das grausame Klarinetten-Quintett ginge
ja keinenfalls.
(あのひどいクラリネット五重奏曲は全く不適当です)と答えています。ここで使われているgrausamという形容詞はgrau(灰色)から派生していますが「恐るべき」「ひどい」という意味で、「灰色がかった」にはgraulichまたはgräulichという別の形容詞があることを何人かのドイツ人に確認しました。
また、12月22日付けのクララ宛ての手紙
・・・und das
Emoll-Quintett paßt nicht gut ins Programm.
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ハンブルク大学音楽研究所 |
(あのホ短調の五重奏曲はプログラムに相応しくありません)によって、このクラリネット五重奏曲がホ短調だったことも分かりました。調性からみてモーツァルトのクラリネット五重奏曲と同じくA管用に書かれたとみて間違いないでしょう。このホ短調のクラリネット五重奏曲がその後推敲を重ねられ、3年後にあの不朽の名作クラリネット五重奏曲ロ短調作品115へと発展、結実したものと推察されます。
なお、クララが63歳の誕生日を迎えたブラームスに宛てた「最期の手紙」も読むことができました。編纂者ベルトルト・リッツマンの脚注「彼女(クララ)はベッドの中で鉛筆を使ってこの最期の手紙を書きました。とても判読しにくいし、これ以上解読しようとも欲しません」を読んだ時は胸が詰まる思いでした。
ハンブルクで考えた事
語学学校のドイツ人教師や、一緒にドイツ語を学んだ延べ20カ国以上のクラスメートたちは、日本の映画やアニメ・マンガ等を通じて一様に日本に強い興味と関心を持っていました。日本製品の高品質やハイテク技術に対しては尊敬の念さえ抱いているのです。日本製のデジカメやムービーで互いの笑顔を撮り合う彼らを見ていると、日本人としてうれしく誇らしい気持ちになったものです。
一方で語学学校は、国による文化・習慣の違いを浮き彫りにします。たとえば、日本人は授業前に教室に着いて教科書やノートを拡げています。授業時間きっかりにドイツ人の先生がやってきますが、ほぼ全員が揃うのはいつも授業開始から30分以上経ってからでした。更に驚くのは半数以上が宿題をやってこないこと。どうやらそれが世界標準らしいのです。ドイツの公園や家屋は手入れが行き届き、交通機関は日本並みに正確。信号を守るのも日本人に似ています。几帳面さ、真面目さにおいて唯一ドイツ人だけが日本人に近いと感じました。
そのドイツ人ですら日本人とは異なる特質を多々持っています。野外が大好きで、ひねもす公園のベンチや芝生に寝そべり、寒い日はひざに毛布を掛けてまで屋外で歓談します。プライベートな会話でも声を潜めるという習慣はありません。殆どの家の居間にはカーテンがないので夜は室内が丸見えです。また、人目をはばからず愛を確かめ合うカップルたちも私には理解しがたいものでした。このようなメンタリティや精神的バックボーンの違い、さらに言葉の壁を乗り越えて、どこまで深く彼らの音楽を理解できるだろう?彼らが音楽に織り込んだ数々の記号を読み解くことができるのだろうか?私がハンブルクで抱いた問題意識でした。
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ヘアマン先生のレッスン風景 |
ヘアマン先生のお宅で、ブラームスのクラリネット・ソナタ第1番、第3楽章のレッスンを受けている時でした。16小節目に差し掛かると先生は私の演奏をさえぎり「違う、違う。ここはワルツでもメヌエットでもない南ドイツの農民の踊りなんだよ」と言って、上体を揺らして踊るしぐさをしながらクラリネットを吹き始めました。それは普段の演奏からは想像もできない、荒々しくも陽気な音楽でした。先生はフェーレンバッハという南ドイツの小さな町のご出身なのです。
昨年末、ニコライ教会とマリエンヌ聖堂で行われたクリスマスミサで先生の隣に座り、ハイドンのテレジアミサ曲を演奏したときのことです。クラリネットのすぐ後ろに並んだ教会専属の合唱団の、心のこもった歌声の美しさと言葉の持つ迫力に圧倒されました。彼らにとって教会やミサ曲やラテン語の歌詞は、幼いころからなれ親しんだ生活の一部だったに違いありません。
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チェリストのお宅でブラームスのトリオを演奏 |
こんな事もありました。ブラームス博物館内を案内してくれていた女性が突然説明を中断し、宙を仰ぎながらつぶやきました。「ほらここ。何て美しいんでしょう!」。BGMとしてブラームスのドイツレクイエムが流れていたのです。クリスチャンでもなく聖書すらろくに読んだことのない私が、冒頭の一語selig sind の意味を心からの共感を持って理解できる日が来るのでしょうか。
一方で地元の演奏家と室内楽を楽しむことができました。ブラームスのクラリネット三重奏曲を、近隣の住民を招いたファミリーコンサートで演奏したのです。国籍も宗教も異なる見ず知らずのメンバーたちと、ドイツ語は充分通じなくても、音楽という共通の言語で瞬時に分かり合えたのです。音楽に国境はない。良い音楽はいつどこでも良い音楽なのだ。そう信じられた出来事でした。
日本人である私は西洋のクラシック音楽を真に理解できるのだろうか?答えは時としてjaであり時としてneinです。自問自答はまだ続いています。
(2010.08.30 by Gm)
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