ミュールフェルトとブラームス
Mühlfeld und Brahms
偉大なるクラリネット奏者の肖像


ミュールフェルト(左)とブラームスのツーショット

二人の出会いについて、殆どの音楽書やCD解説、演奏会のプログラムには次のように記されている。

「・・・作曲家としての創造力の衰えを感じ、遺書まで準備したブラームスは、1891年3月マイニンゲンを訪れた際に、偶然宮廷管弦楽団のクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏を聴き、その美しい音色と優れた技巧、高い音楽性に大きな感銘を受けて再び創作意欲を沸き立たせ、彼のためにクラリネット三重奏曲と、不朽の名作クラリネット五重奏曲を書いた・・・」

なるほど分かりやすい話だ。だが、真実が常に劇的で面白いとは限らない。

大作曲家ブラームスに比べ、一介のクラリネット奏者でしかないミュールフェルトに関する情報がはるかに少ないのは無理からぬことではある。偉大なるブラームスとの出会いがなければミュールフェルトは音楽史に名を残すことはなかっただろう。主役はあくまでブラームスだから「ブラームスとミュールフェルト」という順序で語られ、ミュールフェルトはブラームスの晩年を飾る人物の一人として登場するに過ぎない。それにしてもミュールフェルトがどこで生まれた何人であるかも伝わっていないのは、余りに不公平ではないか。そこでミュールフェルトに関する事実を集めてみた。

L・ミヒャリクのスケッチ(1899)

ミュールフェルトは1856年に生まれ1907年に他界した。MühlfeldのMühlは水車小屋を意味しfeldは野原だから、日本名ならさしずめ小屋野さんか。彼はマイニンゲン近辺出身のドイツ人で、1873年に17歳でマイニンゲンの宮廷オーケストラにヴァイオリン奏者として入団。独学でクラリネットをマスターし、何と3年後の1876年には同楽団の首席クラリネット奏者に就任して生涯その職を全うした。1880年には、後のベルリンフィル初代常任指揮者ハンス・フォン・ビューローが指揮者に就任しているから、その厳しい眼鏡にも適った実力者だったということだろう。事実1884年から1896年の13年間にわたって、バイロイト祝祭管弦楽団の首席奏者を務めたそうだから、当時ミュールフェルトの評価と名声は、ドイツ国内では確固たるものだったに違いない。

さて、問題はミュールフェルトとブラームスとの出会いである。ブラームスは、彼の良き理解者であったハンス・フォン・ビューローがマイニンゲン宮廷オーケストラの指揮者に就任した1880年の翌年にはマイニンゲンを訪問している。その翌年1884年には、ビューローとともにこのオーケストラを率いてヨーロッパ各地に演奏旅行にも行っているのだ。当然首席クラリネットはミュールフェルトだった。

さらに1885年には、ブラームスが死の床で「最も好きな曲」と呟いたという交響曲第4番が、ブラームス自身の指揮するマイニンゲン宮廷オーケストラによって初演されている。あの第2楽章の美しいソロを、ミュールフェルト以外の誰が吹いたと言うのだろう?いや、それどころか、あたかも深い霧の中から次第に形を現すかのようなソロの始まりといい、夢とうつつ、生と死、諦めと憧れが綾のように織り込まれた終結部といい、ブラームスはあの叙情的なソロを、ミュールフェルトの演奏を念頭に書いたと考える方が自然ではないか。

ミュールフェルトが手にするのはオッテンシュタイナー作のベールマン式クラリネット

ではどこから「1891年邂逅説」が出てきたのだろうか?ブラームスはその年の3月、マイニンゲンで開催された演奏会で、ミュールフェルトが吹くウェーバーの「クラリネット協奏曲第1番ヘ短調」を聴き、クララ・シューマンに宛てて
...man kann nicht schöner Klarinette blasen als es der hiesige Herr Mühlfeld tut.
(当地のミュールフェルト以上に美しいクラリネットを吹くことは誰にもできません)
と手紙を書き送っているのだ。

だからと言って、二人がその時に初めて出会った訳ではないことは前述の通りである。ある権威者が、このクララへの手紙を根拠に「ブラームスは1891年にミュールフェルトに出会った」と書けば、それが何時の間にか「定説」となって繰り返し引用され、拡大再生産されていったのだろう。

ブラームスはミュールフェルトを「クラリネットの貴婦人」、「僕のプリマドンナ」、「オーケストラのナイチンゲール」などと呼んで大層な惚れ込みようだった。功成り名を遂げた巨匠にそこまで言わしめるとは、マードンナ音だったのか?今となっては聴く術もないが、様々な記録を総合すると、オッテンシュタイナー製のベールマン式クラリネットから紡ぎだされるその音は、甘く、繊細で、温かく、素朴な音色だったという。また、ヴァイオリンからクラリネットに転向したミュールフェルトの演奏は、かなり伝統から外れた独特のものだったらしく、ヴィブラートを多用して思い入れたっぷりに吹いたようだが、音楽的な解釈も大変優れていたので、その表現方法を学ぼうとクラリネット以外の演奏家も彼を訪ねたそうだ。当時の名ヴァイオリニスト、ヨアヒムですら「表現力ではミュールフェルトに適わない」と述べたという。

A・メンツェルの戯画(1891)

ミュールフェルトは1907年、まだ54歳という働き盛りで世を去った。ブラームスが没して10年後のことである。死因や葬儀の様子等何も伝わってはいない。ブラームスが生涯を閉じた後のことなど、多くの人々にとってはどうでも良いことなのだろう。だが、ミュールフェルトの人生は、クラリネット吹きとしての理想を示してはいないだろうか?オーケストラの一員として、またソリストとして、演奏を通じて多くの聴衆に感動を与え、更には大作曲家に創造の霊感まで授けたのだ。優れた演奏家として国外からも招請され、多くの演奏家が教えを乞いに、また共演を求めて各地から参集したという。勿論ミュールフェルトには類希なる天分が備わっていたのだろうが、恐らく人一倍研鑽も積んだに違いない。才能も努力も足りない我が身を戒め、刻苦勉励して僅かなりともミュールフェルトにあやかりたいものである。

     
 ミュールフェルト・カフェ   ミュールフェルト・フェスト
                               (2005/10/23 revised 2010/01/23 by Gm)