ミュールフェルトのクラリネット


パイパーズ誌305号掲載記念(蛇足ヴァージョン)




2007年1月号

クラリネット吹き、とりわけドイツ音楽とドイツ管の音色をこよなく愛する者にとって、往年の名奏者ミュールフェルトは大恩人と言ってよいだろう。
ミュールフェルトは、その音と技巧と音楽性によって創作活動を休止していた晩年のブラームスに4曲ものクラリネット作品を、しかも名作ばかりを書かせたのだ。特に愁いを帯びた「クラリネット五重奏曲」ロ短調はあらゆる室内楽曲の頂点に立つ作品と言っても過言ではない。もはやミュールフェルトの演奏を聴くことはできないけれど、せめて彼が愛用していた楽器をこの目で見たい。できることなら手にしたい。その長年の夢を今回多くの不思議なめぐり合わせによって叶えることができた。

それはバンベルクにあるセゲルケ氏の工房で開かれたパーティーでのことだった。去る10月に行われたDKG(ドイツ・クラリネット協会)主催のシンポジウムにホルツのメンバーと参加した私は、このパーティーの翌日から仲間と別れて単身マイニンゲン博物館にミュールフェルトのクラリネットを見に行くつもりだった。
それを知ったセゲルケ氏は、やおら手近にあった紙きれに何やら書き付けてそれを僕に渡しながら言った。
「博物館に行ったらこれを館長のフラウ・ゴルツに渡しなさい。これには『このミスターGmは、日本のドイツクラリネット愛好会であるホルツの会のメンバーで、ミュールフェルトのクラリネットを見たいと願っている。できるだけ便宜を計ってやってほしい』と書いてある。実は2007年はミュールフェルト没後100周年に当たり、来年5月にマイニンゲンでフェスティバルを企画中なんだ。それに間に合うよう彼女と協力してミュールフェルトの伝記を編纂中で、僕は楽器の部分を担当しているんだよ。それからミュールフェルトが住んでいた家が今はカフェになっているから行ってごらん」僕は礼を言いありがたく紙片を受け取った。これが後に絶大な威力を発揮するとも知らぬまま。

翌日トーマス・クックの時刻表を片手にローカル線を乗り継ぎ、2時間かけてマイニンゲンの駅に降り立った。マイニンゲンは人口2万人余りの小都市。旧東ドイツ領だったこともあり建物は伝統的な木骨家屋が多く、まるで中世を模したテーマパークのようだ。まず地図を頼りにセゲルケ氏が教えてくれたカフェを探す。さして大きくない町でそれはあっけなく見つかった。エルネスティナー・ホーフ・カフェという名の店の壁にはここがミュールフェルトの住居であったことを示す黒い石板が埋め込んであった。石版には「マイニンゲン宮廷楽団の巨匠でありブラームスの友人であったミュールフェルトはこの家に住んでいた」と記されている。
 ミュールフェルト
・カフェ
店に入ると外観からは想像できないモダンさで、白を基調としたサロン風の部屋は明るく広々としてロココ調の家具とグランドピアノが置いてある。きっと東西統一後に改装されたのだろう。
 マイニンゲン
州立博物館

いよいよカフェとは目と鼻の先にある博物館を目指す。元はマイニンゲン公、ゲオルグ2世の居城だったという博物館は想像していたよりずっと壮大で威厳に満ちていた。

 堂々たる威容を誇るマイニンゲン博物館。写っているのは全体の4分の1程度。
よく整備された中庭中央には噴水がある

建物の中に入りチケット売場でセゲルケ氏が書いてくれた紙を示してゴルツさんにお会いしたいと伝えると、ビア樽のように太ったおばさんは面倒くさそうにどこかに電話したあと首を横に振りながら何かまくしたてた。その態度は社会主義時代のまんま。英語が全く通じないので彼女の身振りと僅かに聞き取れるドイツ語の断片に頼るしかないのだが、「ゴルツ・・ニヒト・・ホイテ・・ハウス・・」と聞けば要は居ないということなのだろう。ならば仕方がない、元々無かった話だし自分で楽器を捜せば良いだけのことだ。
だが、なぜか音楽関係の部屋をしらみつぶしに見て回るもののミュールフェルトのクラリネットは影も形も無い。まさにここにあるべきだと思われる場所にはクラリネットの小さな写真が貼ってあるだけだった。
そこで、さっきから僕の挙動に鋭い警戒の視線を送っていたビール腹の警備員らしきおじさんに声を掛けた。「あなたはミュールフェルトにそっくりですね!ところで博物館のホームページに載っている彼のクラリネットはどこにあるんですか?」するとおじさんは途端に相好を崩して自慢気に髭を触りながら熱心に説明を始めた。「ニヒト・・ヒア・・ツバイヤーレ・・」だけ聞き取れたが、手で荷物を右から左へ移すような仕草から想像するに、2年前どこかに移動したということらしい。
何ということだ!はるばる日本から来たというのに、、、。どうしても諦め切れない僕は、退館する際に守衛のおじさんに最後の確認をした。「ゴルツさんはいないんですね?」「ああ、いないよ」「休暇ですか?」と食い下がる。この時Urlaubという言葉が思い出せず「Ruhe(安息)?」と言ったら守衛さんは一瞬きょとんとした後「その通り!」と笑った。余りに落胆した当方の様子を気の毒に思ったのか、おじさんはスケジュール表のようなものを確認しながら言った。「明日は8時に来るけど、、」「え?!明日の朝8時に来る?」ドイツ語は「明日」と「朝」が同じMorgenなので、何度も腕時計を見せながら確認する。
実はその日の内に次なる目的地、ニュルンベルクに移動する予定だったのだが、このまま何の収穫も無くマイニンゲンを後にするのは忍び難い。急遽マイニンゲンに一泊して翌日の朝に最後の望みを繋ぐことにした。それでもだめなら諦めもつくというものだ。
ブラームスとのツー・ショット
手近なホテルに飛び込むと幸い部屋が空いているという。チェックインを済ませてロビーを見渡すと、なぜかブラームスの等身大(にしてはでかい?)の像がケンタッキーのおじさんよろしく立っている。
ブラームスはハンブルクの出身だ。友人のハンス・フォン・ビューローが音楽監督を務めていたマイニンゲンを何度か訪れてはいたが、公園ならともかくホテルの中にまで像を置くこともあるまいと怪訝に思ったが、もしやこのホテルに泊まったということか?と思い直し、フロント嬢に確認すると「ヤー」と言いながらメモを見せた。そこには「4,Sinfonie」と書かれていた。ブラームスはこのホテルに逗留して交響曲第4番を書き上げたらしい(事実は第4番初演時に宿泊)。何たる奇遇!10年前、僕がベーム式からエーラー式へ鞍(クラ)替えしたのはまさに第4交響曲をブラームスらしい音で吹きたい一心からだったのだ。運が向いてきた。きっと明日は上手く行く、そんな予感が沸いてきた。

翌朝8時に再び博物館を訪れると守衛のおじさんは僕を憶えていて「ゴルツさんは来ているよ。今呼ぶから」と電話をしてくれた。迎えに来てくれたゴルツさんは、名前から勝手に想像していたイメージとはかけ離れた、若くチャーミングな女性だった。英語で自己紹介した後、彼女の立派な執務室に通された。
彼女は僕が示したセゲルケ氏のメッセージに目を通すと「わかったわ。ちょっと待っててね」と言って僕に白い手袋を渡すと部屋を出て行った。白い手袋、、、ということは、、、と考える間もなく部屋へ戻ってきた彼女は僕の目の前に黒光りするケースを置いたのだ。ジャーン!こ、これがほんとにミュールフェルトのクラリネットなのか!何という幸運だろう!撮影の許しを得て早速観察を開始した。
ケースは左右2箇所の小さな掛け金で留められているだけだが、中央には鍵穴がある。

ケースを開けると通常とは逆にA管が手前に収まっている。ベルもタルも分離せず付けたままだ。ベルはリング付き。マウスピースとキャップはベルの中から転がり出てきた。ケース内にはリードケースなどを入れるスペースはない。

         
管体はやや濃く着色されたツゲ製で特有のトラ目が美しく浮き出ている。トーンホールはミュールフェルトの指先によって良い具合に摩滅している。キイの動きやタンポ調整も良好で、今にも演奏できそうな状態。タルはベーム式のように長く、レジスターキイもストレートだ。   キイはメッキされていない洋銀だがその造りは精緻で、ミュンヘンの楽器製作者オッテンシュタイナーが並みのマイスターではなかったことが知れる。hとcisキイにはローラーが備わる。その上にあるesとfの替え指キイは現在よりずっと大きく、形状はまるで洋梨のようだ。   キイの配置はウェーバーと親交が深かったカール・ベールマンとオッテンシュタイナーが開発したベールマン式と呼ばれるもので、ミューラー式からcisメカなどを受け継いでいるが、最大の相違は当時の新機軸であったリングキイを採用している点。
     
中音fキイが左手4キイと音孔を共用するため現在のエーラー式とは逆の左手側にあるなど独自の特徴を備えている。操作しづらいことはなはだしいが、余程管体に新たな孔を穿つことを嫌ったのだろう。当時中音fは通常伝統的なクロスフィンガリングを使ったようだ。   右手小指のf/cキイにはなぜかローラーがない。このキイは上部にある支点からの距離も短いので今よりもしっかりと押さえる必要がある。右手4キイはストレートでまだバナナっぽくない。   マウスピースはグラナディラ製のようで、現在よりやや細身で尖った印象。歯の当たる部分には銀のプレートが埋め込まれている。その位置からするとかなり深く咥えていたらしい(自分の位置とほぼ同じなので嬉しくなる)。木製のキャップはベルの内径に沿った形状をしており「マウスピースはキャップを付けてベルの中に仕舞う」がドイツ管の正統な流儀だったのか。因みに紐は皮製だった。

しばらく至福の時間を過ごした後、ゴルツさんに自説を開陳した。「一般的にブラームスは1891年にミュールフェルトと知り合いクラリネット作品を書き始めたと言われているけど、僕の調査では1885年にそこのホテルで(昨日仕入れた情報)第4交響曲を書き上げた時には既に知り合っていたはず。だからあの第2楽章の美しいクラリネットのソロはミュールフェルトの演奏を念頭に書いたものではないでしょうか?」彼女は「確かに1891年にブラームスはミュールフェルトが演奏するウェーバー(のコンチェルト第1番)を聴いて感銘を受けたけど、それより以前から知っていたはずよ。1891年説はその演奏に感動したブラームスがクララへ宛てた手紙がその根拠となっているの。つまりその手紙は“ミュールフェルトについて初めて触れた手紙”だったということね」。Gmは自説が肯定され大いに満足した。

いよいよ列車の時間が迫ってきたのでゴルツさんに「ダンケ・シェーン!」を連発し、後ろ髪を引かれる思いで博物館を後にした。さて、早速来年のマイニンゲン・ミュールフェルト・フェスティバルに行く算段を始めなければなるまい。

(2006/12/26 by Gm)