エーラー吹きができるまで | ||||||||||||||||||||||
一日にして成らず | ||||||||||||||||||||||
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中学時代 ・世田谷区立船橋中学2年生の時、クラスメイトからスペリオパイプ(=Nikkanのリコーダー)が上手いとおだてられ木に登り始める。 ・ヘルビガという舶来(スイス製)の木
・音楽室にあった学校備品のプラ管クラリネットに興味を覚え、ブラスバンドに入部を希望するも定員一杯と門前払い。 ・自称元N響クラリネット奏者のおじさん(真偽は未だ不明)からジョニ赤1本と引き換えにMoritzというドイツ製?(Berlinと刻印されていた)の木製ベーム・クラを譲り受ける。 ・大橋幸夫著の黄色い教則本(全音出版)を買い、自己流で吹き始める。(この本には「アルバート式」と「ボエム式」の2種類の指使い表が印刷されていた。「ボエム式」とは今で言う「ベーム式
・スコアを見ながらワルター/コロンビア交響楽団の「英雄」やオーマンディー/フィラデルフィア管弦楽団の「運命」等のレコードに合わせてクラを吹く。 ・ストコフスキー指揮NBC交響楽団の「ハンガリー狂詩曲第2番」(右写真)のクラの豊かな響きと鮮やかなテクニックに驚かされる。 ・カレル・シェイナ指揮チェコフィル「田園」でルプタチックなクラの音に出会ったのもその頃。 ・そうそう、船中の音楽の先生は後の大音楽評論家、宇野功芳氏でした。 高校時代 ・オケのある高校に入りたいと都立新宿高校を受験。入学後即、作曲家池辺晋一郎先輩が創部していたオーケストラ(新宿フィルハーモニー・オーケストラ=SPO)に入部。 ・クラの先輩から「お前は木製のクラを持ってるんだから、もっとしっかり練習しろ!」とハッパをかけられる。(当時は木製というだけで高級品)
・新宿のデパートで買ったH ・ゴイザーが演奏するウェーバーの「クラ五」のレコードを聴き、これぞ自分が目指すべき理想の音!と確信する。(モツ五とのカップリング:なぜかジャケ写はベームクラ) ・早速新宿西口のムラマツ楽器で買ったZinnerのマッピにSteuerのリード(ミヒャエルス・カット)をヒモで巻きMoritzを「なんちゃってドイツ管」に改造。 ・ある時中音Aキイの板バネが折れ、新大久保のイシモリに修理に出したところ「白金でバネを作ってやった」とおやじにボラれる。 ・小遣いの全てをレコードと楽譜とリードの購入にあてる。新宿コタニ、渋谷カワイ、銀座ヤマハと十字屋(今はない)に頻繁に出没。 ・新宿東口の名曲喫茶「らんぶる」はSPO部員のサンクチュアリ。 ・クラス対抗合唱コンクールで指揮。自由曲に独断で選んだのがベートーヴェン「自然における神の栄光」。順位は推して知るべし(池辺さんだけ高得点)。みんなゴメンなー! ・某大学受験に失敗し、浪人中「禁クラ」を誓うも"指の練習はしても良い"ことにしていた。 大学時代
・音楽同「攻」会という音楽鑑賞団体にも入部。その会が主催した室内楽コンサートで、その年の毎コン・クラリネット部門優勝者を招いてモツ五を演奏してもらったのだが、これが素晴らしい音だった。彼が後の新日フィル首席、鈴木良昭氏。 ・三鷹音楽院という音楽塾で音大受験生とともに楽理とソルフェージュを学ぶ。先生は池辺さん。ピアノ科の受験生が「スコア」という言葉やグリーグ「ピアノ協奏曲」の有名な冒頭を知らないことに唖然。 ・正式にクラを習おうと新宿のヤマハ音楽教室に通い始めるも、エラソーな先生(♂)が気に入らず2回で退会。
・クラ界の大御所に電話で弟子入りを直訴しOK頂くも、レッスンが短いのが不満で沙汰止みに。
・ガールフレンド(現女房)の紹介で芸大オケの新井淑之先生に師事、ローズやクローゼを学ぶ。今も座右の銘としている先生の教えは『音階なんか曲の中で吹ければ良いんだよ』。そして先生のご自慢は『寅さんのテーマは俺』。車のハンドルを握ると人格が変わった。
・先生のセルマー・シリーズ9のB♭管を譲り受け銀座のヤマハで中古のセルマーA管を購入。当時お気に入りマッピはセルマーB☆。セルマーは音は太いが音色が単調で好きになれなかった。
・リュネールに遊びに来た芸大生のクラのベルには小さな穴が開いていた。どこの?と聞くと「ブリツァー」。彼の名前は四戸世紀(後の読響首席)君と言った。ある時スポーツ刈りの芸大生がコンクール前にオケを振らせてと頼んできた。後の大指揮者コバケン(小林研一郎)さんだった。
サラリーマン時代(浜松)
・間一髪の願書提出(電話で問い合わせした日が締め切り日!)と、とんでもない入社試験を経て、静岡県浜松市の日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)に入社。研修後、浜松支店に配属され学校販売や店頭販売を経験。B♭の会と称して、コンクールに出場できない市内4中学の弱小ブラスバンド部員を集め合同演奏会を開催。また、壊れて音の出ない学校備品を集めてきて「我楽苦多市」と称して売ったら即日完売!学校に売上金を戻して喜ばれる。 ・入社翌年に結婚。結婚式の司会は畏れ多くも池辺先輩。 ・クラシック不毛の地(「らんぶる」という店に入ったらBarだった)で、誰でも良いからクラシック音楽の話がしたいと、結納品のムラマツを持って「浜松フルート同好会」に入会。多くの仲間と出会う。N響石原利矩氏、宮本明恭氏のレッスンを受ける。 ・浜松初の市民オケ「浜松交響楽団」が結成され、オーディションを経て入団(勿論クラで)。以後転勤まで9年間在籍。山本直純氏、山田一雄氏、石丸寛氏、小林研一郎氏らの棒に接する。
・先生から『フィンガリングは指離し、タンギングは舌離し』と極意を伝授される。 ・クラリネット指導者グレード5級を取得(勿論ベームで)。課題曲はシューマン「幻想小曲集」自由曲はウェーバー「主題と変奏」。審査員は海鉾正毅先生。 ・ある浜響の演奏旅行での出来事。客席で我がオケを聴こうと曲の開始を待っているのに中々始まらない。「何ぐずぐずしてんだー?」と思ってたら、実は僕が乗り番で、皆僕を捜していたらしい。あの時はほんとゴメンなー! サラリーマン時代(東京) ・居住した横浜緑区藤ヶ丘から近い「町田フィルハーモニー」に入団。ある時、組曲「窓際のトットちゃん」に出てくるチンドン屋のクラが「上手いねー!」と指揮者荒谷俊治氏に褒め?られる。 ・数年後、平日の会社帰り寄れる「虎の門交響楽団」に移籍。以後浜松転勤まで15年間在籍。 ・クラのダブルケースを電車に置き忘れ、泣く泣く長期ローンでヤマハカスタムSEをセット購入。 ・「第九」第3楽章ソロでベーム式クラの表現力の限界を感じ、ヤマハカスタム・エーラーYCL-857/847を購入。イシモリ専務に紹介された東響小林利章先生にエーラーの手解きを受ける。虎響定演の「ブラ4」トップを機にエーラーに転向し大成功!遂に「エーラーへの道」を歩み始める。 ・小林先生を会長に、新大久保辺りを徘徊しながら裏社会に密かに棲息するエーラー吹きを募り「ホルツの会」を結成。
・佼成W.Oの小倉清澄先生が主宰するクラリネットの勉強&発表会「20日の会」に参加。多くの名曲と同好の士にめぐり合うとともに演奏機会に恵まれる。(「20日の会」解散後も有志により「10日の会」として活動中)・広報部在籍中に「プライベート・ピアノリサイタル」、「バンド自慢コンサート」、「ハロー!クラッシック」などの音楽イベントを企画し、マスコミを通じて音楽の素晴らしさを発信。「1万人のアンサンブル」という壮大な企画は未実現のまま冷凍中。 サラリーマン時代(掛川)
・「片手リコーダー」でKando of the Year 2001 受賞。 ・エーラー式クラ及びイデアルの国内発売のために奔走。 ・掛川市の財政的バックアップのもと「掛川市民オーケストラ」設立に参画。初心者からベテランまで50余名を募集し「自由演奏会」で知遇を得た指揮界の若きホープ堺武弥先生に指導を依頼。いきなり難曲で知られるメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を第1回定演に取り上げ、一心不乱かつ気迫溢れる演奏!で好評を博す。弦のみんな苦労させてゴメンなー! ・「音楽検定試験」2級(最高位)取得。(ビジネス実務法務3級取得・一応仕事もしてます) ・堺先生が、師匠であるマエストロ小澤征爾に掛オケの録音テープを聴かせたところ『クラが上手いな』と言ったとか!? 爾来!我がキャッチフレーズは、"世界のオザワがほめたクラ"(笑 毎日が日曜日時代(東京) ・定年退職を機に、代々木「ムジカーサ」にてクラリネットリサイタルを開催。 ・ドイツへの語学留学を志し、青山のゲーテ学院に半年通学。A2まで全てA+の成績で終了。 ・2009年4月渡独。ハンブルクにて語学学校に通う傍らNDRのクラリネット奏者W・ヘアマン先生の許で研鑽に励む。現地より「日本クラリネット協会」会誌、「パイパーズ」誌に寄稿 ・2010年4月帰国、日本ブラームス協会機関紙「赤いはりねずみ」に寄稿 ・2011年、世田谷フィルハーモニー管弦楽団に入団 ・2012年5月成城ホールにて帰国リサイタル開催。10月「ホルツの会」ドイツ演奏ツアー ・2013年、横浜青葉オーケストラ(YAO)に入団 ・2014年、木曜会合奏団に入団 ・2016年、アンサンブル・シェーンフェルトに入団 ・2018年、シェーンフェルトの伴奏でWeber Cncertinoを演奏 ・2022年、シェーンフェルト定演でシュターミッツ協奏曲第3番を演奏
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